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『わたしのパスかる!』髙階理事長の自叙伝(連載第15回)

ジェックスの設立者で理事長の髙階經和先生が、お生まれになった1929年から現在進行中の研究成果まで、90年を超える人生と研究をみずからまとめておられます。

内容はもちろん、読み物としても大変興味深い「自叙伝」となっています。ぜひお楽しみください!

(連載内容の目次はこちら)

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    『わたしのパスかる!(連載第15回)

ーわたしの歩いてきた道ー

ジェックス理事長 髙階 經和

  

第三章:-1980年~1994年-


13.「ハーヴェイ君」を超える

 わたしは、嘗て1971年「ハート・ハウス」の柿落しのセミナーで聞いたハーヴェイ教授の心音・心雑音の口真似を、いつの間にか独特の形で会得していた。感度の良いマイクの上に左手をかぶせるように握って、その上から右手の人差し指と、中指で掌の上を強くそして弱く叩くと、見事にマイクを通して心音の“ダッ、タッ”という音が作り出せる。また、2音分裂も見事に作り出せる。このような僅かな工夫を、わたしは講演に取り入れていった。

 ある時、東京工業大学の研究室で、わたしは清水氏に言った。

「もし出来る事なら、今までの技術を総動員してハーヴェイを超えられるようなものを、作って見ましょうか」「それはいい考えですね」と清水氏。

 「心音や心雑音、それに頚静脈波、全身の動脈拍数や心尖拍動などは、髙階さんが担当してください。わたしは先に作った電空装置を使って、『ハーヴェイ君』よりは、コンパクトで軽量化したものを作って見ましょう」と、清水氏は自身ありげに言った。

 清水氏は、当時、毎年行われる全国高校のロボット・コンテストで、眼鏡を掛け少しウエーブがかった頭髪に顎鬚を生やした、細面の顔つきのレフリーとして、NHKの総合テレビで既に有名であった。

 「それには、わたしが以前から知っている京都科学と共同で開発するのがいいでしょうね。株式会社京都科学という会社は、1875年に、初めて人体模型の製造を始めました。その後、「科学教育」の必要性から、理化学機器の製造を開始した島津製作所の「標本部」が、その発祥として事業を継承し、戦後、「京都科学標本」として独立し、教育と文化、福祉に貢献している会社です。ですから人体模型の製作では、約百年の歴史がある日本では老舗ですよ」とわたし。

 「では一度、京都科学の方に、連絡を取っていただけますか?」

 「わたしから、教育機器部担当部長(当時)の片山保氏に連絡して見ましょう」

といった話の後、直ちにわたしは京都科学に電話した。

 その数日後、わたしは片山部長、技術主任の鶴岡邦良氏と共に、東京工業大学へ清水氏を訪ねたのである。話は早かった。すでにわたしと清水氏の間には脈波発生装置が完成していた。清水氏はわたし達の申し出を承諾し、片山氏も共同製作することを約束した。

 一方、片山氏の片腕として一緒に仕事を共にしてきた鶴岡氏は、やや小柄な体格ではあるが、色白でがっしりした体格である。髪の毛はいつも短く刈り、スポーツシャツで、気軽に何処へでも出かける男である。酒のほうも結構強く、誰に対しても笑顔で接しているが、時に仕事上のミスに対して若い技術者たちを叱る言葉には、京都弁の持つ優しさの域を超えた鋭さと自信の程を感じさせた。

 清水氏が、頚静脈波、全身の動脈波や、心尖拍動を作り出す電空装置は、血圧の発生装置を開発した段階で実験済みである。清水氏は電空装置を担当し、マネキン本体の制作は、京都科学の片山氏と鶴岡氏が担当し、わたしは心音・心雑音と脈派情報の記録を担当した。

 こうして3者が共同作業で、新しい心臓病患者シミュレータの開発に乗り出した。アメリカのゴードン教授らが、開発したシステムを使ったのでは単なる真似事に過ぎない。我々にとっては全く新しいシステムによる心臓病患者シミュレータの開発が要求された。最終的なチェックには数名の仲間の専門医が加わった。

 清水氏とわたしは京都科学を何回訪れたことだろう。片山氏はコンプレッサーも市販のものではなく、新しい心臓病シミュレータのため軽量化したものを特注した。普通のコンプレッサーが空気圧を上げる時に発生するノイズも少なくしなければならないし、コンピュータを上に置くため、最小限のサイズが要求された。頚静脈波や全身動脈波、そして心尖拍動を再現させるには、マネキンの表皮と血管に見立てた管腔が、コンピュータの出力指令通りに、1分間に60回は膨張、収縮を繰り返さなければならない。わたしは記録された身体所見がどう再現されるのか、その都度、京都科学に赴いた。技術主任の鶴岡氏とわたしは、何度も静脈波や動脈の拍動を確かめた。

 「鶴岡さん、これなら良いよ。オーケーだ」

 「先生に、また“アカン”言われるかと思うてました」

 彼は流石に嬉しそうだった。鶴岡氏は一つの問題を解決したのだ。

 最後に、越えなければならないハードルは、聴診であった。特に4トラック・マルチカセット・レコーダーに収録された心音や心雑音が、果たしてどうマネキンの上に再生されて聴くことが出来るかが、最大の関心事であった。

 わたしは、すでに聴診シミュレータ「さゆり」を開発していたが、その時一番苦労したのが、どのスピーカーをウレタン・フォーム製のマネキンに植え込むかであった。心音や心雑音の周波数は40~400ヘルツの間にある音域である。その音を再現するためには、高性能のスピーカーが要求された。

 「先生、今週、もしお時間があれば昼からでも会社に来て頂けませんか」

 「分かりました。火曜日の午後2時に行きましょう」

果たせるかな、片山は、独自に心音の過剰音(余分なノイズ)を取り除く、ソフトを開発していた。彼が作ったソフトは、アナログによって収録された心音を、見事に澄んだ心音に変えていた。

 「やったね、片山さん。これは良いよ」

 「このソフトを使うと心音や、心雑音を自由に大きくしたり、移動させたりできます」

 「凄いね。しかし、問題は、心音を我々が聴診しているのと変わらない音に、しなきゃならないからね」

 「そうですね。ですから、先生に今日来て頂いたのです」

 そして、実際の患者では呼吸音の他に胸毛の摺れる音や胸筋の音などを削除していき、純粋の心音・心雑音のみをオシロスコープ上の波形を見ながら、何ヶ月も掛かって36例の各心疾患の特徴と、11例の呼吸音と、52例の不整脈を入力することが出来た。ある時、鶴岡氏も制作現場に居合わせたが、

 「次は、心音・心雑音の仕上げだね」とわたし。

 「片山部長と先生のお二人で、調整しはるんですな」と鶴岡氏。

しかし、あのサーサーという音がどうしても取れないのだ。

 それ以来、二ヶ月経つたが、返事がない。作業がどの程度進んでいるのかを知りたくて気掛かりでならなかった。約3ヶ月後にようやく片山氏から電話があった。

 「先生、この次は何時、会社に来られますか?」

 「どうなりました、あの音は?来週の火曜日の午後なら、時間が取れますが」

 「では何時ものように、竹田駅に着かれたらお電話下さい」

 わたしは、内心「あの音の問題が、どうやら片付いたな」という期待と、同時に「果たして」という不安な気持ちもあった。次の火曜日の午後2時にわたしは作業現場に立っていた。

 「この間の音がまだあるかどうか、聴いていただけますか?」

聴診器で全身の動脈の拍動部位を聴いてみたが、三ヶ月前に聴かれたあの「サーサー」という音は、何処を聴いても消えていた。不思議に思ったわたしは、片山氏と鶴岡氏に向かって

 「どうして、音を消すことが出来たんですか?」

 「苦労しましたわ。中々あの音が消えんと。それで部長と相談して自動車の小型マフラーの色んなものを作って試して見ましたら、完全に音が消えたんですわ」

 「なる程、マフラーか。中々いいアイディアだね」

 鶴岡氏がわたしの言葉を聞いて、にっこりと笑った。片山氏も傍から

 「先生、これは鶴さんとわたしの考えですわ」

と言って、2人は顔を見合わせて笑った。穏やかな表情の影で、二人はどんなに努力をしたことだろう。そして、また1つの問題をクリアしたのである。 
    

 またわたしは心尖拍動の微妙な動きを、指先と手掌で頚動脈と上腕動脈や股動脈を触診しながら、鶴岡氏と何度か調整を図って、徐々にマネキン本体を完成させていった。片山氏は聴診器がどんなに微細な心音や雑音でもキャッチするのだということを、改めて認識した次第である。

 

 一方、清水氏も東京から何回も京都に足を運んだ。彼が作った電空装置を軽量小型化、そして特殊なコンプレッサーを作らなければ、脈波を発生させることが出来ない。鶴岡氏をはじめ教育機器部の主要なメンバー達は、清水氏の指導を受けていた。

 こうして漸く脈波発生装置はコンパクトなものとなり、D/Aボード(アナログ信号をデジタル信号に変える装置)と直結された。わたしの既に聴診シミュレータで使った技術と清水氏の開発した電空装置の技術が加わり、片山氏を中心に京都科学のチームの協力も得られて、ついに“ハーヴェイ”を凌ぐシミュレータが出来上がりつつあった。1993年秋のことである。


「片山さん、このシミュレータに、何て名前を付けましょうか?」

「そうですね。先生は何と付けはりますか?」と片山氏。

「日本で初めて出来たシミュレータだから「イチロー君」とでもしましょうか?」

「宜しいですね。覚えやすぅて」と片山氏。

しかし、我々はまさかその翌年にプロ野球界の天才的プレーヤーの鈴木一朗が、「ICHIRO」という名前でデビューを果たすとは夢にも思っていなかったのである。

 このシミュレータが、広く臨床医学教育に使われるためには慎重を期さなければならない。片山氏とわたしは幾度となく点検を行い、微調整を繰り返していった。1994年12月中頃にNHK大阪支局の森島繁見記者が取材のため京都科学を訪れた。森島氏とカメラマンは、初めて見る心臓病患者シミュレータに驚いたようである。そして1995年1月11日のNHKの全国放送で、そのニュースが放映された。

 この第1号機を使って、医師や、医学生およびナースを対象に研修を行ってみたが、その研修の結果は予想を遥かに超え、短時間の研修によっても、ベッドサイドにおける心臓病患者の診断技術が飛躍的に向上することが分った。勿論、シミュレータは教育機器であり、これを使って教える講師の知識と経験がその効果を更に高めることは言うまでもない。これが第-8のパスかるとなった。(8)

 

 【第3章おわり・・・次回に続く

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