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『わたしのパスかる!』髙階理事長の自叙伝(連載第22回)

ジェックスの設立者で理事長の髙階經和先生が、お生まれになった1929年から現在進行中の研究成果まで、90年を超える人生と研究をみずからまとめておられます。

内容はもちろん、読み物としても大変興味深い「自叙伝」となっています。ぜひお楽しみください! 

(連載内容の目次はこちら)

髙階先生の経歴はこちら

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    『わたしのパスかる!(連載第22回)

ーわたしの歩いてきた道ー

ジェックス理事長 髙階 經和

  

第4章:-1995年~2022年-

 

14.eラーニング 「聴診」

 2003年8月27日、「アジア・ハート・ハウス」設置準備事務所が2003年春、横浜に多くの方々の協力と尽力によりオープンしたが、政治的な理由でこのプロジェクトは横浜での存続が難しくなったため、急遽、大阪にその設置場所を変えることになった。そして1986年にわたし達がアメリカの「ハート・ハウス」を視察してから19年の歳月を経て、2004年1月、当社団法人が目指してきた国際臨床医療研修センター「アジア・ハート・ハウス」をJR新大阪駅近くにあるビルのワンフロアに設置することが出来たのである。また、インターネット上に「聴診」e-ラーニングが登場し、誰でもアクセスが可能となり、今後は新しい国際的研修活動を展開し、ネットを舞台に活躍する事になった。

 2004年3月25日。夕方のNHKハイビジョン放送で、京都科学の鶴岡邦良氏(*前出)が、京都の名工の1人に選ばれ、彼の紹介の中でも「イチロー君」製作の過程が克明に記録され、放映された。

 そして、その2日後に東京国際フォーラムで開催された第68回日本循環器学会学術総会において、アメリカ心臓病学会との合同シンポジウムの中で、わたしは英語で講演を行ったが、「イチロー君」を使って行った卒後研修の有効性について過去5年間の実績を紹介し高い評価を受けた。フロリダ大学医学部の友人であるコンティ教授の長女エイミー・コンティさんと一緒にシンポジストとして登場した。

 

15.「心臓病の達人」

 2006年1月27日、晴。冬の寒いながらも見事に青空が広がる福岡に旅した。今回の旅は昨年の2月から文部科学省の外郭団体である財団法人「日本理科振興協会」の要請により、「その道の達人」プロジェクトの一環として2度目の派遣講義である。派遣先は福岡市立壱岐東小学校の5年生に対して『心臓病について』と題する講義をすることになった。

 博多駅から市営地下鉄に乗り、午前10時15分、終点の「姪浜」(めいのはま)駅で降りた。改札口には今回の派遣講義に対して昨年来、準備を進めてこられた教務主任の榎本隆先生が車で迎えに来られた。駅から車で10分のところに小学校があった。

 教頭の瀬戸宏先生が玄関でわたしを出迎えられた後、校長の中村親良先生、そして今回のわたしの派遣講義を視察に来られた日本理科振興協会の瀧澤祥彦常務理事らと校長室で、講義の始まるまでの間、瀧澤氏から『その道の達人』派遣事業についての話を聞いた。やがて午前10時50分となったので、わたしは4階の講堂まで階段を登っていった。講堂に入ってみたが、2段になった広い部屋には生徒の姿はない。持参したメモリー・スティックをコンピュータに接続し、今回の講義の内容をチェックした。 

 するとドアを通って1人、2人と生徒が入ってきたが、その後から次から次にと自分の椅子を背中からお尻にすっぽりと載せて「ヤドカリ」のような格好で生徒たちが入ってきた。その恰好を見て思わず微笑む。そしてほんの数分のうちに5年生全員77名が講堂に並び、自分の椅子の上に座ったのである。

 榎本先生の「皆さん、静かにしましょう」という声が教室に広がる。やがて11時となり、教頭の瀬戸先生がわたしを生徒たちに紹介した。はじめの内はがやがやという声が講堂にあちこちで聞こえていたが、やがて静かになった。

 「皆さん、こんにちは」「こんにちは!」と生徒たちの大合唱。わたしは「今日はまず、皆さんにわたしがどうして医者になろうかと思った動機について、お話しましょう」といって、正面のスクリーンにパワーポイント・スライドを映し出す。
 「わたしがちょうど皆さんと同じ年の時に、父が脳卒中で倒れてしまったのです。そして父の左半身が麻痺してしまいました。父は町のお医者さんとして開業していましたが、突然、病気になってしまったため、病人になってしまいました。わたしの母も何とか父を助けようと必死になって看病しました。姉や兄たちもいましたが、父が倒れてしまったために、兄弟は一時ばらばらに親戚の家に預けられましたが、半年後に兄弟は再会しました」

 「そして半年が経ち、父も少しずつ脚が動くようになり、母や兄、姉たちが杖の代わりになって一緒に歩くことが出来るようになりました。わたし達には医者である父が家にいましたが、同時に病人である父もいたのです。やがてわたしが中学生になり、体も段々と大きくなるにつれ、父を風呂に入れるのを手伝うのがわたしの日課になりました。戦争中に焼夷弾で大火傷を負った人々を半身不随の体にも拘わらず、必死になって助けていた父の姿を見て、『わたしが大きくなったら、きっと父のような人を助けるため、医者になろう』と決心したのです。やがてその夢が叶って、わたしは医者になりました。それは51年前のことです。こうしてわたしが医者として皆さんのために話が出来るようになったのは、父が病気になったことがきっかけだったのです」

 生徒たちが静かにわたしの話を聞いている。校長先生も、教頭先生、そして担任の先生らは熱心にわたしの話に聞き入っていたが、「皆さん、わたしの話は分かりますか?」と質問したが、まだ生徒たちの表情は硬い。「先生はどんな話をするのだろう?」と期待半分、不安半分の気持ちで聞いていたためだろう。前列に座っていた女の生徒はうなずいてくれたが、後ろの方に座っている生徒は「難しくてよく分かりません」とぽつりと言った。

 「それでは次に、心臓のことについてお話しましょう。皆さんの左手を前に出してご覧なさい」と言ってわたしが自分の左手を広げて前に出すと、全員が一斉に左手を出した。「そう、その左手を静かに握って胸の中央において下さい」

 全員が各自の胸に左手の拳を置く。「その場所に心臓があるのです」生徒たちの瞳がじっとわたしの次の仕草を待っている。「その拳を握り締めたり緩めたりすると、心臓から血液が大動脈という太い血管を通って、体のすみずみに血液を送り出していくのです。血液には酸素と栄養分が含まれていますからね」

 生徒たちは体を乗り出すようにして、わたしの話を聞いている。「ところで皆さん、心臓の大きさはちょうど自分の握り拳の大きさなんですよ」「握り拳は体重の何分の一か、分かりますか?」「・・・・」「100分の1と思う人は手を挙げて」というと何人かが、手を挙げる。「200分の1と思う人は?」というと可なりの生徒が手を挙げた。「なるほど、では300分の1?」というと殆ど同じくらいの数の生徒が手を挙げた。「正解は200分の1なのです。後で自分の体重を200で割ってごらんなさい。心臓の重さが計算できますから」そして次のスライドで猫と馬が草むらの中にいる写真を見せて「この猫と、馬も心臓の重さは200分の1だよ」というと、生徒はみんな目を輝かせて頷いた。男子生徒の1人がスライドの画面のしみを見て「あっ、虫が飛んでいる!」といったので思わず笑ってしまった。

 「心臓は体重の200分の1だということを今日は最初に覚えてくださいね」生徒は全員頷いてくれた。「つぎに、全身中を流れている血液の量は、片方の膝から下の脚の重さと殆ど同じなんですよ。それは体重の13分の1です」「心臓というのは『生体のポンプ』なんです。ポンプから出て行った血液が、血管を通ってまた心臓にかえってきますから、循環しているポンプだと思ってください」「そして大人の場合は一日の心臓から出て行く血液量は、何と風呂桶八杯分の『8トン』になるんです」というと生徒たちに表情は驚きに変わった。「皆さんは体重が大人の人の2分の1だから、4トン位かな」

 「そしてこの『生体のポンプ』である心臓を動かすためには、電気信号が必要ですね。心臓には自然に心臓を動かすことが出来る電気信号が出る場所があるのです。その電気信号で心臓は収縮したり、拡張したりして動くのです。ですから心臓は『生体のポンプ』であると同時に『生体の電池』なのです」

 わたしは次々の生徒たちに心臓の仕組みについて、分かるように説明していった積もりだが、ひょっとすると5年生の生徒には難しいのではないかという思いもあった。前もって榎本先生から「生徒たちが騒がしいかも知れませんが、大目に見てやって下さい」とお話があったが、全く静かにわたしの講義を聴いていてくれたので、非常に話しやすかった。

 次にわたしは「これは心臓の模型で実物大です」といってビニールで出来たピンク色の心臓の模型を前列の生徒に渡し、また2本の聴診器を右側と左側前列に座っている生徒に渡して「先生の講義の間に自分の心臓の音を聴いてご覧なさい」と言った。用意していた心音のCD-Rがコンピュータの機種の違いで上手く作動しなかったため、すぐにわたしは心音を口真似で聞かせることにした。聴診器を白衣のポケットから出し胸の上に置き「この辺を聞くと、”ダッタッ“と2番目の音が大きく聴こえます」と口で擬音を出してみた。その後、大動脈弁狭窄の心雑音も口真似で再現した。生徒たちは口真似で表現する心音の話を熱心に聞いていたが、顔の表情から聴診のはなしに興味はあったかも知れないが、十分理解は出来ないことが見てとれた。その間に、さっき渡した聴診器で熱心に自分の心臓を聴いてみたり、心臓の模型を開けて中の構造を多少気持ち悪そうに、しかし熱心に見詰めている生徒たちの姿があった。

 「では、最後に心臓病にならないための10ヶ条についてお話しましょう」と言って、最後のスライドで日ごろの日常生活では規則正しい生活をして、食事も甘いものや、食べすぎは禁物だとか、食べ物は好き嫌いのないように、友人を大切にすることや、タバコは絶対に健康には良くないこと、やたらと怒ったり腹を立てたりしてはいけないことなどについて話した。1枚のスライドはオーストラリアの世界遺産「グレイト・バリア・リーフ」サンゴ礁の中にある珍しい写真であったが、「このサンゴ礁の形は何に見える?」と聞くと、生徒たちは一斉に「ハート型!」と叫んだ。そして「努力なくして成功なし、皆さんの幸運を祈ります」のスライドを最後に、1時間の講義を終わったのである。

 講義が終わるやすぐに「先生、心臓はどうして心臓と言うのですか?」と質問した生徒がいた。「それは大変いい質問ですね。昔の人は心臓に『心』があると思っていたのです。しかし、実際には心は脳にありますね。皆さんが緊張したり興奮したりすると、心臓はドキドキするでしょう。それは脳から神経の刺激が伝わるためです。ですから『心臓』と名前を付けたのは、昔の人が心臓には心があると考えていた歴史があったことを知っていて下さい」「分かりました」と返事をしていたが、この生徒の表情も、わたしの説明ではまだ十分に理解していなかったに違いないと思った。その後も何人かの生徒が質問したが、中には「お相撲さんは、やっぱり太っていたり、負けたりするとムカつくので心臓病にはなりやすいですか?」と質問した女生徒がいた。「そうですね。お相撲さんの生活は体に無理をしているので、中には体を悪くする人もいるよ。でも普通の生活に戻れば、助かるかも知れないね」と答えた。それは過激な運動と、体重を普通の人の倍近く太らなければ、体重の差が勝負に影響するからである。どの質問も的を射ていたのでわたしも丁寧に答えた。やがて校長先生が「皆さん、心臓の重さは?」と生徒に向かって聞くと、一斉に「200分の1!」と答えた。校長先生はわたしに向かって「こんなに大人しく外の先生の話を聞いてくれたのは今日が初めてです」とやや驚いた表情で話された。こうして講義は終わったが、今度は入ってきた時と同じように、自分の椅子をお尻にくっ付けて講堂を出ようとしていた前列の女生徒が「先生、握手!」といって片手を差し出してきた。すると後から後から生徒たちが、次から次にわたしに握手を求めてきた。中には「先生、サインして!」といってノートを差し出す始末。ついに担任の先生が「髙階先生はお忙しいから、一人だけサインしてもらって、後は先生がコピーして皆にあげるよ」という一幕もあった。

 こうして無事にわたしは「心臓病の達人」の講義を終わった。わたしを見詰めてくれた生徒たちの『77名の瞳』に「将来にもっと勉強してみよう」という意欲さえ感じられた。わたしの講義が生徒たちに夢をふくらませることが出来たとすれば、こんな大きな喜びはない。帰途、博多から新大阪までの新幹線の中で、昔見た大女優の高峰秀子さんが扮した小豆島に赴任した女性の先生の物語「二十四の瞳」の場面が頭を過ぎった。

 帰阪して数日後に教務主任の榎本隆先生、校長の中村親良先生、教頭の瀬戸宏先生から、丁重なお礼のメールが届いた。そして3週間後には30名の生徒から「髙階先生、博多まで来てくれて有り難うございました」と素朴な感謝の気持ちを表した可愛い30通の手紙が、教務主任の榎本隆先生の手紙とともに届いた。いままで心臓についての知識もなかった生徒たちが、わたしが講義のはじめに話した「心臓は自分の体重の200分の1だ」と言うことを殆どの生徒たちが覚えてくれたことは何よりだったと思っている。僅か一時間の講義であったが、生徒たちは今まで経験したことのない貴重な体験だったに違いない。

 わたしが歩いてきた道程は小学校5年生の生徒たちからすれば、想像もつかないくらい長い人生の時間であろう。しかし、子供の頃から、ある機会に接して人生は大きく変わるものだ。一瞬間を大切にして努力することが大切である。つい先ごろ出会った福岡市立壱岐東小学校五年生の「77名の瞳」を思い出しながら、生徒たちが将来、大きくなって立派な社会人になることを祈っている。

 

 

 ・・・次回に続く

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