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『わたしのパスかる!』髙階理事長の自叙伝(連載第7回)

ジェックスの設立者で理事長の髙階經和先生が、お生まれになった1929年から現在進行中の研究成果まで、90年を超える人生と研究をみずからまとめておられます。

内容はもちろん、読み物としても大変興味深い「自叙伝」となっています。ぜひお楽しみください!     (連載内容の目次はこちら)

髙階先生の経歴はこちら 

前回分はこちらから                        

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    『わたしのパスかる!(連載第7回)

ーわたしの歩いてきた道ー

ジェックス理事長 髙階 經和

  

第二章:-1954年~1971年-

14.ホワイト先生との出会い

 1970年、大阪万博が開催された年、思わぬ経験をした。それは『WPW症候群』で世界的に有名なドクター・ポール・ホワイトとお目に掛かる機会をえたことである。医師や医療関係者の方々は、ここに提示する心電図を一見すると学生時代に一度は目にした風変わりな心電図所見であることをすぐに思い出される事だろう。

 図の標準誘導(I誘導とIII誘導)で示される様に、P波の直後からデルタ型に立ちあがるRS波は幅が広く0.12秒を越えています。1920年代後半に、3人の医師:Wolff-Parkinson-Whiteが、偶々彼らの患者の中に変った心電図波形を示す人がいることを発見し、1930年共著で論文をまとめ「WPW症候群」として発表しました。当時はまだ心電図がまだ標準誘導しかなかった頃であり (主に10代∼20代に見られる先天性心疾患の一型ですが、発作性頻脈や、動悸、胸痛、眩暈、吐き気、時には呼吸困難を起こして意識が薄れることもありました。普通は胎児時期に心臓には「ケント束」と呼ばれる刺激伝導路がありますが) 殆どの胎児は生後すぐこの房室短絡路が無くなってしまいます。


 しかし1,000人中、数人の確率でその刺激伝導系が残ってしまう人があることを発見したのです。正常の心臓では心房内の刺激は一旦「房室結節」左右の心室脚へと刺激が伝わります。従って心房内の刺激が直接心室に伝わることはありません。

 福岡で開催される日本リウマチ学会総会事務局から依頼され、その前日にホワイト先生夫妻を大阪万博の会場へご案内するということになりました。大阪のホテルへお迎えに行きましたが、わたしは今まで面識がありませんでした。ホワイト先生はアメリカ合衆国において「心臓病学の父」と呼ばれ有名な方でしたが、1961年にマサチューセット総合病院に「心臓病部門」を立ち上げられ、また心電計を導入した最初のドクターであり、ホワイト先生はアメリカ心臓病協会の基礎を作られた人物でした。

 「どんな方だろうか?」と思って大阪北区にあるロイヤル・ホテル向いました。ところがホテルのロビーに姿を現した長身で細身の白髪の老人がわたしに近づくと、笑みを浮かべながら「Are you Dr. Takashina?」と声をかけられました。ホワイト夫人も品のある女性で笑みを浮かべながら挨拶をかわしました。万博会場へ向かう車の中で、わたしがチュレーン大学のバーチ教授(Prof. George E. Burch) のもとで4年間いた事を知り、ホワイト先生が「ジョージは素晴らしい男だよ」(George is a wonderful fellow.)とコメントされました。万博公園についてから、真っ先に驚いたことはホワイト先生の足の速さ!とても80歳過ぎの老人とは思えない力強い足取りで広大な敷地を休むことなく歩き通し、わたしの方が付いて歩くのがやっとでした。

 後でわたしが知ったことは、先生が「バイコロジー」(Bicology =bike-ecology )の提唱者であり「自転車を使う事で虚血性心疾患の予防になる」と提言されたことで、世界中にこの運動が広がって行ったのです。毎日、坂道の多いボストンの街を通り、凡そ10マイル道程を通勤しておられたそうです。道理で万博公園の坂道も何食わぬ顔で颯爽と歩いておらえたのだと改めて思いました。自転車通勤で若者に負けない足腰の筋力を鍛えておられた次第です。

 夕方、先生夫妻と共に大阪空港から福岡空港まで日航機で移動しました。大阪空港を離陸した後、ホワイト先生がわたしに2枚のスライドを渡され「これが明日の講演でわたしが話す内容なので目を通しておいて呉れませんか?」「はい、承知しました」と返事し、わたしは自分のシートに戻ってよく見ると2枚のスライドは手書きの文字で「WPW症候群」のことが書かれていました。手書きのスライドは非常に読みづらく「まあ、何とかなるさ」と気楽に考えて鞄の中に入れました。約1時間のフライトの後、福岡空港に到着しました。空港には久留米大学内科の木村登先生(当時)や、友人の戸嶋祐徳助教授らが出向かえに来ておられました。

 そして翌日、日本リウマチ学会総会が開催され、ホワイト先生が最初に招待演者として講演を始められました。前もってホワイト先生の通訳をしてほしいと木村登教授から依頼されたのがわたしでした。ところがいざホワイト先生の手書きのスライドがスクリーンに投影されるや、驚いたのはわたし一人ではありません。「WPW syndrome was first reported in 1930 B.C.」(WPW症候群は紀元前1930年に最初に報告された)とハッキリと読み取れるではありませんか?会場の参加者もそれに気付いたのか、水を打ったような静けさです。わたしも何かの間違いではと思ったのですが、これは先生にB.C.の意味を聞かなくてはと思いました。       

 「Dr. White, would you mind tell us, what does it mean B. C.? 」(ホワイト先生、恐縮ですが、B.C とは何を意味するのですか?)
 すると先生はすかさず、「Oh, its means Before my practice of Cardiology」(ああ、それはわたしが心臓病学をやる前という意味だよ。)
 この略語の意味を通訳するや否や、会場は暫く大爆笑の渦に巻き込まれました。― ホワイト先生(1886~1973)は生涯、心疾患の予防に取り組まれ、世界中の心臓病専門医が認める伝説的な方でした。先生は年にハーバード大学を卒業し、第一次世界大戦中はイギリス陸軍の軍医部門で活躍されました。そして「ドクター・トーマス・T・ルーイス卿」(Sir Thomas T. Lewis)の指導を受け、ロンドン大学病院で一年間心電図学を学びました。それが基礎となり「WPW症候群」の発見につながったのです。またアイゼンハワー元大統領の主治医であったことでも有名です)。―

 話を元に戻しますが、ホワイト先生は講演中に「Dr.Takashina, when were you born?」(髙階先生、貴方が生まれたのはいつですか?) と質問されました。予期せぬ質問に壇上にいたわたしも思わず緊張してしまいました(この質問は講演ごとに先生が使われる質問だったようです。)

「 I was born in December 1929.」(わたしは1929年12月に生まれました。)と答えると、先生は

「 Is that right? WPW syndrome was first reported one year after your birth.」(そうですか、WPW症候群は貴方の誕生から一年後、最初に報告されたのです。)と笑いながら話されたことを今でも覚えています。WPW症候群の患者さんを診察する度に、医学界の歴史的な人物であった「ホワイト先生」と過ごした二日間のことは、わたしに取って貴重な経験であり、いつも新鮮な記憶として蘇らせています。

 ・・・次回に続く

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