ジェックスの設立者で理事長の髙階經和先生が、お生まれになった1929年から現在進行中の研究成果まで、90年を超える人生と研究をみずからまとめておられます。
内容はもちろん、読み物としても大変興味深い「自叙伝」となっています。ぜひお楽しみください! (連載内容の目次はこちら)
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『わたしのパスかる!』(連載第5回)
ーわたしの歩いてきた道ー
ジェックス理事長 髙階 經和
第二章:-1954年~1971年-
6.長男誕生
1961年1月29日、長男(経幸)が誕生した。わたし達が仕事で出掛けている間は黒人のメイド「ローラ」が経幸にベビーシッターとして面倒を見てくれた。彼女の英語は正に『風と共に去りぬ』の映画に出てくるメイドそっくりだ。毎日、病院からアパートに帰ると、長男にミルクを飲ませたり、バスに入れたりすることがわたしの日課となった。バスの湯が熱すぎて「ギャー」と泣き喚いたこともあったし、折角、ミルクを飲ませたのに肩に抱いて背中を擦っている最中に、「ゲブー」という音とともに殆どわたしの背中に吐き出してしまったこともあった。今から考えると冷や汗ものの毎日だった。それでも経幸は丸々と元気に成長していった。
長男が生まれた事によって、わたし達はアメリカ人の社会にすっかり融けこんで、生活をするようになった。幸子も育児や、日常生活を通して何時の間にか多くの友人が増え、また2年目の夏の休暇にはバージニア州リッチモンド市に住んでいるインターン時代に皮膚科部長だった「ドクター・トライス」の自宅に3日間泊めてもらい、アメリカ各地を旅して彼らの生活に触れている中に、友人も次第に増え、ニューオーリンズは我々の第二の故郷となった。わたし達は1962年までの4年間、今まで日本では経験した事がなかったエネルギーに溢れ、積極的に行動するアメリカ人社会の中に融け込み新しい生活を始めた。長男が生まれたことでアメリカ人社会により深くとけ込むことが出来たように思う。
大学では、学生の教育や、病棟や外来の勤務を行ったが、当時、外来患者に急性心膜炎を起こして入院してくる患者の割合が多いことに気付いた。わたしが最初に興味を持ったのは、当時の黒人病棟でよく遭遇する心膜水腫である。なぜ心膜炎の際、心膜水腫が急速に貯留するのかを解明したいとおもった。いままで心膜の水分や、各電解質の透過性について研究された論文がないことを知り実験の目的をバーチ先生に話したところ、すぐに快諾を得た。しかし、実験的に生体膜面を使って行った先例がない。わたしは心膜炎の発生要因が、外傷性、感染性、ガンによる転移、リウマチ熱の後遺症などによって起こることを知り、実験装置を作り上げ、犬の剥離心膜を使って刺激を加えた際に、心膜はその刺激に反応し急性心膜炎を起こすことを知った。この実験装置を使って事件してみると、1分間、一平方ミリ当たり、300ミリリットルの水分が貯まることを、D2O、H3、Na22およびMg28の放射性同位元素を使って証明し、これが第-1「パスかる」となった。(1)
7.心疾患と掌紋との関係
わたしが出会った友人の一人に随分変わったドクターがいた。白衣を着ているのはニューオーリンズ慈善病院の外来診療の時だけである。一日のほとんどの時間は作業服に前掛けをかけていたので初めて出会った時、てっきり工作室にいるテクニシャンだと思っていた。わたしの部屋にツカツカと入って来るなり、
「アー ユー ドクター・タカシナ?」
「イエス」
「アイ アム、アル、ドクター・アル・ヘイル」
祖父がモヒカン族のインディアンとあって彼の風貌も色黒くとても平均的アメリカ人には見えなかった。それに加えて彼独特の荒っぽい卑俗語で話すので、最初はかなり戸惑った。しかし、性格はサッパリしていて、直ぐに友達となった。彼は解剖学者でもあり学生たちには抜群の人気があった。1962年春のことである。当時、心疾患と掌紋の比較研究を行い、白人と黒人との間には掌紋に違いがあること発見したことで有名になり、新聞記者らのインタービューを受けていたのだ。その彼が廊下で出会うと、
「ケイ、頼みがあるのだが」
「アル、わたしに出来ることでも」
「もうすぐ、夏には日本に帰るのだろう?」
「あゝ、そうだが」
「日本に帰ったら、心疾患と掌紋の仕事を追試してくれないか?」
「いいよ、わたしに出来ることであれば「手掌の根元のところにある三角になったところがあるだろう。それを軸三角というんだが、それが先天心疾患と後天性心疾患の間で差があるかどうかを調べて欲しいんだ」
「わたしにできるかな?」
「できるとも、日本人はアメリカ人に比べると先祖がハッキリしているだろう。アメリカ人は先祖がどうなっているのか分からない奴が一杯いるからな。比較が難しいんだ。」
(*前頁のイラストで手首に示めされている掌紋が集まって三角(T)になっている部分を「軸三角」と呼ぶが、この三角になったT部分が小指側に偏位する率が先天性心疾患では後天性心疾患に比べて偏位率が約三倍であることが分かった。)
という会話が元となり、胎生期3カ月まで形成される心臓に障害が起こった時に先天性心疾患が発生する。それを確かめるため、母親から詳しく病歴調査行った。その結果、わたしは日本人における後天性心疾患と先天性心疾患患者の間に、18%対64%の差があることを発見し、1954年、アメリカ医師会雑誌に発表した。これが第-2「パスかる」となった。(2)
4年間の留学生活は苦しくもあったが、わたし達夫婦は何事にも興味をもち、積極的にアメリア人社会に受け入れられ、楽しく充実した生活を送ることができた。
8.二度目の太平洋
1962年7月25日、わたし達はアムトラック鉄道に乗って2日目の午後に西部海岸のロサンゼルスへ到着した。そこでレンタカーを借りてアナハイムまでドライブし、3年前に開園したばかりの「ディズニーランド」近くのモーテルに泊まり、船が来るまでアメリカ最後の休日を過ごした。
こうして妻の幸子とニューオーリンズ生れの1歳半の長男・経幸を連れて、ロサンゼルスから川崎汽船の「新日本丸」に乗船し横浜を目指して帰国の途についた。
しかし、船がアナハイムを出港し、太平洋を北上するに従って気温が下がり、船室には暖房が入った。エアダクトから暖かい風が室内に送られてくる。ところが、この暖風が経幸には仇となり肺炎を起こした。突然、咳と高熱に見舞われ全身けいれんを惹き起こした。抗生物質も効かない。わたし達の必死の看病にも拘わらず、その症状が一週間近く続いたため「もう経幸は、助からないのではないか?折角ここまで育てて、もうすぐ日本に着くというのに…」と半ば諦めにも近い気持ちに追い込まれていた。
無謀ともいえる大量の抗生物質の注射が功を奏して、横浜港に入る2日前に熱が下がった。「経幸が助かる!」当時の、わたし達の喜びの気持ちは言葉で表せない。「経幸、よく頑張ったね」わたしたちは一つの試練を乗り越えた。本当に嬉しかった。こうして親子3人は、無事帰国することが出来たのである。(*その長男は放射線専門医として昨年まで活躍していたが、既に還暦を迎え現役を引退した。)
今でも奇妙な記憶として残っているのは、横浜港に着き岸壁から陸に上がった時、わたしも家内も向こうからやってくる人の顔が全て自分達の友人の顔に見えたという体験である。この奇妙な「浦島太郎的体験」はひょっとすると長く外国生活をしてきた人に、共通したものかも知れないし、あるいは長年アメリカ人の間で暮らし、長男が生まれてから子育てを通して同年代のアメリカ人との付き合いが広がり、あまり日本人の顔を見ずに過ごした我々だけが、感じた貴重な経験だったのかも知れない。
横浜港まで迎えに来てくれた幸子の母親の菊子や、弟の正らは再会を喜び合い、荷物を纏めて自動車に乗った途端、真っ黒に日焼けした我々の顔を見て、二人とも「お姉さん達は変わったね。積極的で逞しくなったみたい」と異口同音にいった。長くアメリカ生活を送った人に対して「あの人の表情はバタ臭い」とか「表情が外国人の様だ」と言われるのは、その人の生活態度や、自然に身についた日常的な仕草などから来るのだろう。国内にいる人々が外国生活者に対する印象として感じているのは、わたしたちが感じたことの裏返しの感覚なのだろうか?
9.日本初の臨床研修プログラムを立ち上げた
1962年夏に帰国したが、わたしは旧態依然とした大学教育システムには馴染めなかった。チュレーン大学で臨床心臓病学を学んだことを駆使できる病院は少なかったが、渡米前にオリエンテーションを兼ねて研修で働いたことのある淀川キリスト教病院のブッシュ院長に「先日、日本に帰りました」と挨拶の電話をしたところ、折り返しドクター・ブッシュから「ぜひ勤務して欲しい」との要請があり、ドクター・ブッシュと相談の結果、九月から内科に勤務するが、わたしの循環器内科を立ち上げることを条件とした。しかし、わたしが目にしたのは、大学から派遣されてきた若い医師たちの積極性に欠けた生ぬるい姿であった。数か月後に帰国したハーバード大学に9年間勤務した白木正孝もすぐに若い医師たちの姿勢に対してわたしと同じ印象を持った。
わたしと白木はこの病院を今迄の日本にはない特色を出すため相談し、回診を英語で行うという考えをまとめ院長室に出向いた。「わたし達はこの病院を更に良くするため、来週から病棟回診を全て英語で行う許可を頂きたいのですが?」反応は速かった。「それは素晴らしい考えだよ!ドクター髙階・ドクター白木、やって頂けるかい」とブッシュ院長は満面に笑みを浮かべて即座に許可してくれた。当時、全国では珍しい卒後研修教育プログラムの先駆けとなる臨床教育の場を若いドクター達に提供するというユニークな発想の内容を医局前の掲示板に英語と日本語で書いて貼り付けた。若い勤務医たちはそれを見て一様に「えっ!」という驚きの声をあげ、そして喜んだ。これが淀川キリスト教病院の名が全国に知られる契機となり、反響を呼んだ。
毎週水曜日朝7時30分から行われる「モーニング・ラウンド」には大阪にある各大学から数名の若い医師たちが教授の許可を得たうえで、わたし達のラウンドに参加したのである。わたし達は当病院に勤務しているドクターであろうが、大学病院から参加したドクターであろうか同様に接した。しかし、わたし達が経験したアメリカ流の臨床修練の厳しさに困惑したある大学から派遣されたばかりのドクターは「そんなに厳しく、我々に接しなくて良いでしょう?」と苦情を申し立てた。しかしわたしは「これが四年間アメリカで訓練されたベッドサイド教育なのだ。それが嫌なら院長とあなたの大学の教授に報告してくれ」・・・返事はなかった。積極性のない人は留学しても意味がない。
そしてわたし達が指導した若いドクターの中には、毎年「外国医学卒業者への教育員会」ECFMG(Educational Committee for Foreign Medical Graduate)の試験に合格しアメリカに留学するドクターが誕生したことは、わたし達が日本で初めてとなる臨床研修プログラムが実践に強い「ヤング・ドクター」を育てることに成功したのである。病院にとっても革命的な出来事となり。これが第-3「パスかる」となった。(3)
10.2,391例の心電図を読影し解析
わたしは当病院が発足以来、臨床現場は忙しく、また循環器を専攻した医師もいなかったため、誰も心電図を解析し統計を取っていなかったことに気が付き「これでは日本人の心疾患や、心電図変化がどうなっているのかが分からない」と考え、それを明らかにすることで各心疾患の推移を客観的に評価できると考え2,391例の心電図を一人で読み解析したことだった。その結果を日本循環器学会誌に報告した。これが第-4「パスかる」となった。(4)
11.次男誕生
1963年5月15日、幸子は次男・経啓を淀川キリスト教病院で無事出産した。我が家にもう一人の男の子が家族のメンバーに加わった。(彼は現在、東京大学医学部を卒業したあと、医師になるのをやめコピーライターとなり、その後も劇作家としての活動や、防災士の資格を取得し、「職業・話し相手」(日常生活における水先案内)なる取り組みを始めるなど、独自の道を歩んでいる。
【・・・次回に続く】
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