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『わたしのパスかる!』髙階理事長の自叙伝(連載第4回)

ジェックスの設立者で理事長の髙階經和先生が、お生まれになった1929年から現在進行中の研究成果まで、90年を超える人生と研究をみずからまとめておられます。

内容はもちろん、読み物としても大変興味深い「自叙伝」となっています。ぜひお楽しみください!  (連載内容の目次はこちら)

髙階先生の経歴はこちら 

前回分はこちらから                        

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    『わたしのパスかる!(連載第4回)

ーわたしの歩いてきた道ー

ジェックス理事長 髙階 經和

  

第二章:-1954年~1971年-

4.歴史の街ニューオーリンズ

 ニューオーリンズは、ミシシッピー川に囲まれてできたデルタ地帯であり、一年中亜熱帯気候に覆われたアメリカの建国歴史の一頁を飾る南部の街である。別名は「三日月型の都市」(Crescent City)と呼ばれ、ミシシッピー川のすぐ傍に「フレンチ・クオーター」(French Quarter=フランス地区)がある。かつてフランス領であったこの街には、多数の黒人達がアフリカから奴隷として。彼等の多くは狭い船室で長い船旅の間に病気や、予期せぬ出来事のため、アメリカに着くことなく死んでいった。そしてニューオーリンズに辿りついた彼らは、フレンチ・クオーターの東側にあるジャクソン・スクエアのすぐ傍で競売にかけられた。その彼らを繋いでいた錆びついた鉄柵は、わたし達がこの街に住んでいた1960年代には残っていた。

 奴隷商人達に騙され、アフリカからアメリカに送られてきた黒人達の暗い歴史のページに焦点を当てた連続テレビドラマ『ルーツ』が、約50年前に黒人の監督と黒人の素人俳優だけで制作され、日本でも話題を呼んだ。主人公の「グンタ・キンテ」という一人の黒人の青年を演じたのは、当地の高校生であった。

 彼が演じるグンタ・キンテが、奴隷として競売にかけられるところからストーリーは展開する。映画のシーンにはフレンチ・クウォーターの退廃的なけだるさと、反対に陽気な黒人のミュージシャンが奏でるデキシーランドのリズムをバックに、薄暗い酒場の片隅に陣取ったギャンブラー達、そして夜のガス燈の灯った街角に佇む娼婦達の姿、リバー・ボートから降り立ったばかりの男達の物珍姿が現れては消えていく。フレンチ・クウォーターに住む貧しい「プア・ホワイト」(poor whites)の人間模様を描いたテネシー・ウイリアムス原作の『欲望と言う名の電車』は、映画化され、名優マーロン・ブランドとヴィヴィアン・リーが、頽廃と売春に開け暮れる社会の底辺で毎日を暮らす男女の姿を描いている。(*この映画名「欲望」を行先表示つけた巡回バスがニューオーリンズ市内を走っている。)

 

 かつて20世紀の大作といわれたハリウッド映画の『風と共に去りぬ』では、クラーク・ゲーブルとヴィヴィアン・リーが、南北戦争時代に生きた男女の物語を描いた。その映画に登場する大邸宅は、今も芝生の中を走るチンチン電車で有名なジャクソン・ストリートに面して建っている。

 しかし、ニューオーリンズと言えば、何と言ってもまず頭に浮かぶのは、デキシーランド・ジャズに代表されるアメリカ南部の音楽である。古くは黒人のトランペットの奏者ルイ・アームストロングや、白人のアル・ハート、クラリネット奏者のピート・フォンテンたちがフレンチ・クオーターで演奏した後、世界的なジャズマンとして育っていったジャズ発祥の地でもある。現在のアメリカの都市には、殆どなくなってしまったアメリカの歴史の姿をとどめる街として、アメリカをはじめ、ヨーロッパの人々、特にフランス人には人気がある。

 フレンチ・クウォーター東側にあるジャクソン・スクェア、その美しい公園の中央に南軍のジャクソン将軍が、馬上ゆたかに帽子をかざしている銅像がある。その北側には、アメリカで一番古いといわれているセント・カシーデラル教会があり、ステンドグラスの美しさが旅行客の心を和ませる。そして南側の角に通りをへだてて、フランス風のパテイオがある。その名は「カフェ・ドゥ・モン」(CAFÉ DU MONDE=最高のカフェ)。テラスに並べられたテーブルと椅子、そして「四角い形のドーナツ」と「カフェ・オーレ」、それが全てだ。

 「カフェ・ドゥ・モン」の角に立ち、東に延びる道路には馬をつないだ鉄の柵が一定の間隔で並んでいた。それは嘗て奴隷が繋がれていた柵(映画『ルーツ』にも登場する)であったが、今ではその前に車が並び、余程注意しなければ、「それが一体何だったのか?」ということさえ分からなくなっている。時は歴史を風化させていく。そして新しい時代とともに忘れ去られていくのだろう(最近、ニューオーリンズを旅した人が鉄柵は撤去されて今はないと教えてくれた)。

 

5.チャーリー・ブラウン

 わたしはチュレーン大学で2年目の夏になった。病棟の勤務はインターンとレジデント、それにクリニカル・フェローともう一人のフェローが病棟を受け持つことになった。殆どのアメリカの大学の新学期は九月から始まる。病棟のフェローは二名、そのうちの一名はわたしであった。新しいチームの相棒として現れたドクターに「やあ、初めまして。ケイ、ケイ・タカシナです。」

 「ドクター・タカシナ、わたしはチャーリー、チャーリー・ブラウンです。宜しく。」 

と握手を交わしたが、何とその体格の立派なことにまず驚かされた。そして何処かで聞いた名前だと思ってふと気が付いたのが、彼は漫画チャーリー・ブラウンに出てくる主人公の名前ではないか。日本では、自分を犬とおもっていないスヌーピーの方が有名だが、その漫画の主人公とは似ても似つかぬハンサムな青年である。どの内科病棟やステーションに行っても、「ドクター・タカシナ、今度は『チャーリー・ブラウン』と組むんだってね。」

と聞かれた。わたしも「そうだ。」と答えはしたが、みんな微笑みながら、わたしと相棒になった新任のドクターのことを良く知っている様子だった。彼のことを知らないのは、外国人であるわたし一人らしい。わたしの研究室仲間である「ドクター・ラザラ」に聞いてみると「ドクター・タック(*彼はずっとわたしのことをそう呼んだ)知らなかったのですか。彼はチュレーン大学に入る前は、ニューヨーク・ヤンキースの名三塁手だったんのですよ。」

 「何だ、そうだったのか」とわたしは苦笑したが、その後、チャーリーと一緒に仕事をしてみて、彼のドクターとしての誠実さ、勉強熱心、そして患者に対する暖かい思いやりのある態度のすべての面で、彼が誰にも好かれ、尊敬されている立派な紳士であることが分かった。

 医師である前に、立派な社会人であることがアメリカの医師になるための基本的条件であった。アメリカの大学医学部や、医科大学への進学資格は、まず4年制の大学卒業者に限られていることだ。その4年制の大学は文科系であっても、理科系であっても問題ではない。殆どの場合、医学部への入学志願者は、大学卒業後、社会人として一旦職業に就いた後、改めて医学部を目指す人が多い。彼等の80パーセントは結婚していて、子供もいる。本人が大学に通っている間、パートナーは会社に勤めて家計を支えていた。

 毎年、秋になると全国から入学志願者が願書を送ってくる。そこで入学試験の第1段階で入学試験担当の教授が面接をする。1日に平均4~5名に対して1人ずつ綿密な面接を行い、彼らが何故社会人から医師を目指すのかという志望の理由を聞き、教授は更にその志願者が医師になるべき資格があるかどうか、そして正直であり、謙虚であるかどうか、また活動的であり協調性をもっているか、研究心があるか、などあらゆる角度から志願者のプロフィールを把握していく。

 そして翌日には志願者を実際に医学生と共に講義に出席させる。各志願者に対して数名の医学生が1日中一緒に行動を共にし、日常会話の中から彼等の入学志願者に対する印象や、コメントを当該教授に報告するのである。もし、医学生モニター達の評価が良くなければ、入学志願者が入学できることはまずない。内科の他の病棟に勤務していたドクターは、数年間、ボストン交響楽団のチェロ奏者として活躍していた音楽家だったし、弁護士の資格を持った人もいた。そして相棒の「チャーリー・ブラウン」は、大リーガーだったのである。

 日本のプロ野球の選手が後にドクターになった例は、未だかつてない。わたしは当時、日本のプロ野球は勿論、アメリカの大リーグのことなど、全く知らなかったのだが、若くしてスタープレイヤーとしてスタンドを沸かせたプロ野球の選手であっても、余程の勇気と、頭と忍耐力、それに経済力がなければドクターにはなれない。(*日本でも学士入学で医学部に編入されてくる学生や、一旦、社会人となってから再び医学部の試験を受けて入学してくる学生が増えてきたことは、喜ばしい現象である。)

 その「チャーリー」がニューヨーク・ヤンキース時代に名プレーヤーとして活躍したサード魂が彼には生きていた。漫画の主人公ならぬ現実のわたしの相棒として過ごした一年間は、わたしの医師としての歩みの中で、実に爽やかな想い出であり、そして誇りである。「チャーリー・ブラウン」がチュレーン大学医学部に残したファイン・プレーは、彼の野球選手としての人生とともに今も後輩のドクター達に語り継がれている。

 当時、わたし達が大学での勤務に明け暮れるニューオーリンズでの生活は決して楽ではなかった。毎月350ドルの給料では一ヶ月の終りには、パンがたったの2個とポケットに5ドル紙幣が1枚しか残っていなかったことも、しばしばだった。留学して2年目にバーチ教授の配慮によって、家内の幸子が医学研究助手として採用され、やっと人並みの生活が出来るようになった。幸子はベクトル心電図(当時は新しい心電図の検査法である)を使って、新生児の心電図などを撮っていた。

 わたしは外来と内科病棟で学生達を指導する毎日であったが、同時に研究室で種々の放射性同位元素を使って「犬の心膜の透過性についての研究」を行なった。様々な実験用の器具を自分で作り、そして論文を1962年、American Heart Journal とJournal of Laboratory and Clinical Medicine に発表した。わたしの研究を助けてくれたのは黒人のワトソンや、実験用機器の制作技師であったラルフらが献身的なにサポートしてくれたことに、感謝している。

 

 

・・・次回に続く

※「わたしのパスかる」へのご感想をぜひお寄せください。 office@jeccs.org

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