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【理事長ブログ】メディカル・エッセイ『WPW症候群・余話』

メディカル・エッセイ『WPW症候群・余話』

 

(公社)臨床心臓病学教育研究会 理事長 髙階 經和

 

 WPW症候群と言えば、医師や医療関係者の方々は、ここに提示する心電図を一見すると学生時代に一度は目にした風変わりな心電図所見であることをすぐに思い出される事でしょう。

図1(a) WPW症候群の典型的な心電図  (b)ケント束(Bundle of Kent) 

 

 図1(a)の標準誘導(I,III)で示される様に、P波の直後からデルタ型に立ちあがるRS波は幅が広く0.12秒を越えています(1,000人に数人の確率で起こる「先天性心疾患」の1つです)。1920年代後半に、3人の医師:Wolff-Parkinson-Whiteが、偶々独自に患者の中に変わった心電図波形を示す人がいることを発見し、1930年共著で論文をまとめ「WPW症候群」として発表しました。当時はまだ心電図がまだ標準誘導しかなかった頃であり (主に10代∼20代に見られる先天性心疾患の1つですが、発作性頻脈や、動悸、胸痛、眩暈、吐き気、時には呼吸困難を起こし、意識が薄れることもありました。これは胎児時期に心臓には「ケント束」と呼ばれる刺激伝導路がありますが) 殆どの胎児は生後すぐこの房室短絡路が無くなってしまいます。しかし1,000人中、数人の確率でその刺激伝導系が残ってしまう人があることを発見したのです。正常の心臓では心房内の刺激は一旦「房室結節」に入り左右の心室脚へと刺激が伝わります。従って心房内の刺激が直接心室に伝わることはありません。

 図1(b)で「ケント束」にはA型とB型があることを示しており、無症状に経過する人もありますが、多くは「発作性頻拍」(心房内へ刺激がリエントリーする結果、頻拍発作を起こす)を起こすのです。基本的には遺伝はしないと言われていますが、遺伝があったという事例も報告されています。最近では治療法としてカテーテル・アブレーションがあり、ケント束を焼却することで、2度と頻脈発作起こることを予防できるようになったことは言うまでもありません。
 ここまでは心電図の基礎的な知識の復習になってしまいましたが、実は「WPW症候群」の2番目の“W”である「ホワイト先生」と、私が1970年に大阪でお目に掛かった事がありました。九州で開催される日本リウマチ学会総会事務局から依頼され、その前日にホワイト先生夫妻を大阪万博の会場へご案内するということになりました。

 

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 大阪のホテルへお迎えに行きましたが、私は今まで面識がありませんでした。ホワイト先生はアメリカ合衆国において「心臓病学の父」と呼ばれ広く知られていましたが、1916年にマサチューセッツ総合病院に「心臓病部門」を立ち上げられ、また心電計を導入した最初のドクターであり、ホワイト先生はアメリカ心臓病協会の基礎を作られた人物でした。

 「どんな方だろうか?」と思って大阪北区にあるロイヤル・ホテル向かいました。ところがホテルのロビーに姿を現した長身で細身の白髪の老人が私に近づくと、笑みを浮かべながら「Are you Dr. Takashina?」と声をかけられました。ホワイト夫人も品のある女性で笑みを浮かべながら挨拶をかわしました。万博会場へ向かう車の中で、私がチュレーン大学のバーチ教授(Prof. George E. Burch ) のところの4年間いた事を知り、ホワイト先生が「ジョージは素晴らしい男だよ」(George is a wonderful fellow.)とコメントされました。

 万博公園についてから、真っ先に驚いたことはホワイト先生の足の速さ!とても80歳過ぎの老人とは思えない力強い足取りで広大な敷地を休むことなく歩き通し、私の方が付いて歩くのがやっとでした。後で私が知ったことは、先生が「バイコロジー」(Bicology=bike-ecology )の提唱者であり「自転車を使う事で虚血性心疾患の予防になる」と提言されたことで、世界中にこの運動が広がっていったのです。毎日、坂道の多いボストンの街を通り、およそ10マイルの道程を通勤しておられたそうです。どおりで万博公園の坂道も何食わぬ顔で颯爽と歩いておられたのだと改めて思いました。自転車通勤で若者に負けない足腰の筋力を鍛えておられた次第です。

写真1:ボストンの街を自転車で通勤中のホワイト先生

 

 そして夕方、先生夫妻と共に大阪空港から福岡空港まで日航機で移動しました。大阪空港を離陸した後、ホワイト先生が私に2枚のスライドを渡され「これが明日の講演で私が話す内容なので目を通しておいてくれませんか?」「はい、承知しました」と返事し、私は自分のシートに戻ってよく見ると2枚のスライドは手書きの文字で「WPW症候群」のことが書かれていました。手書きのスライドは非常に読みづらく「まあ、何とかなるさ」と気楽に考えて鞄の中に入れました。約1時間のフライトの後、福岡空港に到着しました。空港には久留米大学内科の木村登先生(当時)や、友人の戸嶋祐徳助教授らが出向かえに来ておられました。

 

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そして翌日、日本リウマチ学会総会が開催され、ホワイト先生が最初に招待演者として講演を始められました。前もってホワイト先生の通訳をしてほしいと木村登教授から依頼されたのが私でした。ところがいざホワイト先生の手書きのスライドがスクリーンに投影されるや、驚いたのは私一人ではありません。「WPW syndrome was first reported in 1930 B.C.(WPW症候群は紀元前1930年に最初に報告された)とハッキリと読み取れるではありませんか?会場の参加者もそれに気付いたのか、水を打ったような静けさです。私も何かの間違いではと思ったのですが、これは先生にB.C.の意味を聞かなくてはと思いました。
写真 2:講義中のホワイト先生

 

「Dr. White, would you mind telling us, what does it mean by B. C.?(ホワイト先生、恐縮ですが、B.C. とは何を意味するのですか?)すると先生はすかさず、

「Oh, it means Before my Cardiology(ああ、それは私が心臓病学をやる前という意味だよ。)この略語の意味を通訳するや否や、会場は暫く大爆笑の渦に巻き込まれました。

 

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 ホワイト先生(1886-1973)は生涯、心疾患の予防に取り組まれ、世界中の心臓病専門医が認める伝説的な方でした。先生の父親はマサチューセッツ州ロックスバリー(Roxbury)の開業医でした。先生は1908年にハーバード大学を卒業し、3年後、ドクター・リー(Dr.R.I Lee)と共に血液凝固を測定する方法を開発され最初の論文として発表されました。その後、第一次世界大戦中はイギリス陸軍の軍医部門で活躍されました。そして「ドクター・トーマス・T・ルイス卿」(Sir Thomas T. Lewis)の指導を受け、ロンドン大学病院で1年間心電図学を学ばれました。それが基礎となり「WPW症候群」の発見につながったのです。またアイゼンハワー元大統領の主治医であったことでも有名です。

 

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話を元に戻しますが、ホワイト先生は講演中に「Dr.Takashina, when were you born?」(髙階先生、貴方が生まれたのはいつですか?) と質問されました。予期せぬ質問に壇上にいた私も思わず緊張してしまいました(この質問は講演ごとに先生が使われる質問だったようです。)

「 I was born in December 1929.」(私は1929年12月に生まれました。)と答えると、先生は

「 Is that right? WPW syndrome was first reported one year after your birth.」

 (そうですか、WPW症候群は貴方の誕生から一年後、最初に報告されたのです。)

と笑いながら話されたことを今でも覚えています。WPW症候群の患者さんを診察する度に、医学界の歴史的な人物であった「ホワイト先生」と過ごした2日間のことは、私に取って貴重な経験であり、いつも新鮮な記憶として蘇らせています。


参考文献:

  • ・髙階經和、やってみようよ!心電図:インターメディカ.1982, 92-93.
    ・https://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Dudley_White
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