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【理事長ブログ】―華岡青洲の高弟・髙階經宣と初の女医を育てた髙階經徳―(1)

―華岡青洲の高弟・髙階經宣と初の女医を育てた髙階經徳―(1) 

大北医報(N0.247)平成27年10月15日掲載文より

はじめに                                                                            

髙階 經和

今回、このエッセイを書く契機となったのは、現在、神戸大学大学院医学科神経発生学(解剖学) 教授の寺島俊雄先生が、2年前のある日、神戸大学医学部同窓会(神緑会)会館の光庭の石碑に、彼の目が留まった事に始まる。

 

その石碑は兵庫県立神戸医学校の初代の校長で、また県立神戸薬学校長と県立神戸病院院長を兼任していた「神田知二郎」先生の記念碑であり、彼は石碑の後半の文面に「髙階」の苗字を発見した事にはじまる(寺島俊雄:神緑会会報誌・第6巻、第3号、27-31頁、2014)。その後、偶々、同窓会名簿に「髙階經和」(たかしな・つねかず:1929年生まれ)の名前が載っていることを発見し「オヤッ」と思った。というのも神田知二郎のことについて調べていると、彼の知人に「髙階經徳」また「髙階經本」の名前を見出し、彼らが歴代天皇の侍医職にっいていたことを知った次第だ。そして髙階家の系譜を遡っている内にある事を発見した。それは子供が男子の場合、名前の上の文字は「經」の一字を使う家則があり、ひょっとすると同窓会名簿の「髙階經和」が髙階經徳-髙階經本に連なる人物ではないかと思った。

 

寺島先生の推理は正しく、私は髙階經徳・髙階經本の末裔である。寺島先生は私に「先生が髙階經徳や髙階經本の子孫である以上、お2人の事をご存じなのは先生しかおられません。是非、彼らのことについて書いて頂けませんか」と要望した。その大きな理由の背景となったのは、故「渡辺淳一」氏の小説『花埋み』の文中に經徳が登場していたことである。經徳は東京で医師を目指す男性の書生たちのため私塾を開いていたが、荒くれた書生たちに混じって1人の女性「荻野吟子」がいた。彼女は医師になろうという強い信念の元に、彼らのセクハラにも屈せず医学の勉強に励んだ。そして經徳は、多くの困難を乗り越えた彼女を育て、日本で第1号女医としての資格を取得させた。吟子は女医として活躍した後、最期に「花に埋もれた」棺の中で永遠の安らぎを得たという物語であったことは、『花埋み』の読者の方々もご存知の事だろう(渡辺淳一:花埋み、 角川文庫、1940)。

 

第2次世界大戦後、天皇を頂点とした皇族・士族・平民など日本における社会階級制度が無くなり、 憲法第14条が法の下、皇族以外、国民は平等であるという時代となった。そのため戦後70年間、私は自分の家系や伝統にっいて他人に語る事を封印し、先祖の事を調べる気持ちにもなれず機会を失していた。それは私にとって当然の反応だったと今でも思っている。

 

(2015年の今夏は戦後70年の節目に当たるが、NHKを始め各民放テレビ、新聞を始め、メディアは毎日のように第2次大戦中の外地の映像を流し、外地における日本軍兵士の姿や、広島・長崎に投下された原爆により、一瞬の内に都市が完全に廃墟と化した悲惨な戦争の有様を、全く知らない今の若い世代に伝えようとしている。しかし、彼らは遠い昔の話として捉えているのではないだろうか? 私が中学校2年生の時に勤労動員で、当時、香里園の山間に造られた東京第2陸軍造兵工廠で働いていた時、我々8人のチー厶が牛車(牛の代わりに中学生が駆り出されていたのだ)をロープで引っ張っていた時、舵を取っていた友人が、艦載機の機銃掃射によって我々の目の前で撃たれて亡くなった悲惨さや、機銃掃射を受け、父の診察室の壁に銃弾が大きな孔を開けてめり込んだ光景、神戸大空襲のために焼夷弾攻撃を受けて友人の姉が焼夷弾の直撃で即死した姿や、全身に大火傷を負った人々を助けていた父の姿(脳出血の後遺症が残る体にも拘わらず)そして母が自分の一番大切にしていた着物を鋏で切って、包帯として使っていた姿が今でも私の網膜に焼き付いている。(その両親の姿を見て私は医師になろうと決心した。)

 

では本論に話を戻そう。私が他人に語る事を避けていた先祖の事、とりわけ髙階經徳より2世代遡ると、髙階經宣の名前が登場する。彼が日本の医学歴史に1ページを飾る人物として系譜に残されていたことを再発見することになろうとは考えもしなかった。偶々、私を説得した寺島先生の熱心な思いによって、このエッセイを書く契機となった次第である。

 

 

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