ジェックスの設立者で理事長の髙階經和先生が、お生まれになった1929年から現在進行中の研究成果まで、90年を超える人生と研究をみずからまとめておられます。
内容はもちろん、読み物としても大変興味深い「自叙伝」となっています。ぜひお楽しみください!
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『わたしのパスかる!』(連載第12回)
ーわたしの歩いてきた道ー
ジェックス理事長 髙階 經和
第三章:-1980年~1994年-
5.心臓聴診シミュレータ「さゆり」誕生
あれこれ思案の末、人体の肺実質に近い空気の層がある発泡ウレタンを使ってみようと考えたのである。その材料は東急ハンズにあると判断し、早速土曜日の午後、東急ハンズ江坂店を訪ねた。果たせるかな、発泡ウレタンなどを扱った形成材料の売り場が三階にあり、そのコーナーに、50センチ角で厚みが4センチの真白な発泡ウレタンが、棚に置かれているのが目に入った。
「これで、マネキンのボディを作ってやろう」
と、わたしは考えた。そこで25枚の発泡ウレタンを注文した。正に、これが聴診シミュレータ製作への第一歩であった。数日後に届いた発泡ウレタンの山を見てクリニックで後内道子婦長は驚き、
「先生、一体これで何を作ろうというのですか?」
「今にわかるよ。手伝ってくれるかい?」
「力仕事なら、任せてください」
と言って包みを持ち上げてみたが、相手が軽すぎて、些か拍子抜けしたに違いない。4センチの厚みの発泡ウレタンの片面にG17ボンドをシンナーで薄めて塗りつけ、5枚づつ張り合わせ、その上に11ミリの厚手のベニヤ板を置き一昼夜おいて置くと、五枚で20センチの塊となった。こうした作業を五回繰り返して、遂に1メートルの発泡ウレタンの真っ白な搭が出来上がった。それを散髪屋の鋏で切り込んでいく。始めの内は、真っ四角だった発泡ウレタンの塊が、徐々に女性の上半身に変わっていった。わたしは彫刻家にでも成りきったつもりか、また修行僧のように、一心不乱に制作を続け、始めてから6ヶ月が過ぎ、漸く、美しい原型が出来上がった。ボディの歪みもない。思わず「やったぞ!」と叫んだ。
日本橋の電気店に何度も足を運び色々と試してみた結果、ソニー製で、直径3センチのイヤホーン・スピーカーを、使ってみたところ、このスピーカーが、正確に心音・心雑音を、再現してくれることが分かった。直径2センチに開けられた発泡ウレタンのトンネルに、直径3センチのスピーカーを挿入する作業は容易ではない。まずスピーカーの後ろ側から、直径2センチほどの竹筒の端に軽く接着剤を付けて一時固定した後、スピーカーの回りに植物油を塗り静かにトンネルの中に挿入していく。徐々に押し込むに従ってスピーカーは目には見えなくなっていった。そして背中から、正確に予め測った位置に来た時、竹筒の端を回転させながら手前に引っ張ると、スピーカーを所定の位置に設置することが出来た。しかし、この作業工程が一番難しく、全神経を集中しなければならなかった。わたしはこのマネキンの製作過程を、簡素化する方法があるに違いないと思って大洋工芸の安田修身主任に相談してみると、
「我々も強化線維プラスチックではなく、女性の下着メーカーから、柔らかい素材のマネキンの製作を依頼されていますが、東京のメーカーに問い合わせて見ましょう」
という返事であった。勿論、わたしも既成のボディを使うのが、早道に違いないと考えた。その後、安田さん自身が粘土で作成した見事な女性の上半身のモデルを原型として石膏の型を取り、それから金型をつくり、この金型にあらかじめ着色した塩化ビニールを注入し、回転式加熱釜で処理すると、ピンク色の美しい皮膚が出来上がった。そして金型から剥離した皮膚に発泡ウレタンを注入して製作する作業が行われ、ソフト・マネキンが完成した。
一方、心音の入力作業は、友人の紹介により東京電機大学の福井康弘教授と、益澤徹研究員が担当した。収録した心音・心雑音をマイクロチップに入力した操作器を作成し、スイッチの切り替えによって、20症例の各心疾患に、特徴的な心音のI音・Ⅱ音、および心雑音を大動脈部位、肺動脈部位、三尖弁部位、僧帽弁部位から独立して発生させることが出来たのである。こうして3年に共同研開発研究の結果、ついに聴診用シミュレータを完成させることが出来た。これが第-6の「パスかる」である。
6.心臓病患者シミュレータ「ハーヴェイ君」
一方、1984年にマイアミ大学を訪れて以来、東京のエーザイ株式会社と何度も交渉の結果、遂に「ハーヴェイ君」をエーザイ株式会社の協力により、マイアミ大学から大阪に導入することが出来た。1989年4月のことである。このシミュレータ「ハーヴェイ君」が、社団法人臨床心臓病学教育研究会に導入されたことが、翌日直ちにNHKニュースでも報道された。
「いやー、凄いものが、大阪に来ましたね」
初めて研修に参加したドクターは異口同音に
「わたしたちが考えていたものより、ずっと大きなものですね」
など、いろいろな感想を漏らした。
「ハーヴェイ君」の点検のため、マイアミから一緒にやって来ていたミスター・シンは、インド系のアメリカ人で、小太りの小柄な男だった。しかし、話を聞いて見ると、彼には糖尿病があり、2ヶ月前に心筋梗塞を起こして良くなったばかりだという。
わたしも彼の仕事振りには気を遣った。大阪港の大阪市が所有する船着場の建物の2階を借りて、「ハーヴェイ君」を研修に使うことになったのだが、その前に厄介な問題が起こった。
大阪税関の係官がやってきて、「ハーヴェイ君」を点検するという。このシミュレータが、医学教育に使われるもので予め輸入業者がマイアミ大学医学部からの証明書を提出していたのだが、
「これはあくまでも商品であり、教育目的であっても、課税の対象になります」
との一方的な税官吏の判断で、多額の輸入税を支払わされたのである。その時、官報や新聞紙上で、すでに「医学教育資料などは無税である」ことが公示されていたので、わたしは大阪税関に出向き、抗議したが、あくまでも彼等は態度を変えようとはしなかった。官報で決まった事実を無視する彼等の態度に、さすがのわたしも腹が立った。何でも後で聞くと、府会議員の口添えがあれば無税で通関すると知り、改めて役所の歪んだ体質を思い知らされた。
「ハーヴェイ君」を使って定期的に研修が行われるようになったのだが、その重いシミュレータを収納庫から出し、これが研修に使えるようになるまでの手順はほとんどわたしが一人で行った。初めのうちは興味もあって、研修に参加する開業医やナース、医学生達もいたが、次第に大阪港まで日曜日や休日に、わざわざ研修のため出掛けるのは面倒だと感じるようになった人が殆どである。
研修を依頼された講師のなかには、参加者が少ないと言って腹を立てるものもいた。しかし、わたしは黙って「ハーヴェイ君」による研修を続けていたのであるが、そのうちに幾つかの問題点が出て来た。3時間経過するとカム装置(モーターの回転運動を上下運動に変える装置)を動かしているモーターが加熱して、頚静脈波などが同調しなくなる。熱を冷ますために休ませなくてはならない。
「ハーヴェイ君も疲れてきたのでしょうか?ちょっと30分ほど休ませましょう」
と、初めのうちは冗談で済ませていたのだが、一定の時間が経過すると「カタッ、カタ、カタッ、カタ」という音が、止まらなくなってしまう。調べて見ると、この音はカム装置が長時間の使用によって、器械の噛み合わせが微妙にずれるためであることが分かった。
「この頚静脈波の動きは、何か変ですよ」
とあるドクターが指摘した。調べてみると、確かに僅かなA波と呼ばれる右心房の収縮によって、発生する頚静脈波の振れが頚動脈拍動の大きな振れと一致してしまうのだ。これでは診断ができない。
それに、「カタ、カタ、カタ」という器械音が聞こえてくると、どこかが不調になってきたサインであることもわかってきた。2メートルの長さと、350キロという重量の器械は重くて、移動に予期せぬ事態が発生した。
【・・・次回に続く】
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