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『チャーリーとトム』(その2)

『チャーリーとトム』(その2)

ジェックス理事長  髙階經和

 私たち夫婦がニュー・オーリンズに住んでいた4年間、トムが心臓病の症状を起こしたことは1度もなかった。 私たちが1962年に日本に帰ってからも、トムとチャーリーは絶えず几帳面に手紙をくれた。トムは間もなく昔からのガールフレンドだったジョーン(Joan)と結婚した。トムも何回か「いつか機会があれば、日本にぜひ行きたい」と書いてよこした。チャーリーが折に触れて話す日本での素晴らしい経験や人々の生活風景に、水彩画を見るような憧れの気持ちを持っていたに違いない。 私たちの「友人」であるチャーリーとトム、この2人のおかげで私たちはニュー・オーリンズで充実した時間を過ごすことが出来た。

 1982年の正月、チャーリーからトムが大動脈弁置換術を受けたことを知らされた。その年の3月にニュー・ オーリンズで開催されるアメリカ心臓病学会に出席するため、私たちが同市を訪れることを知っていたチャーリーは、トムのことを知らせておきたかったのだろう。
 3 月下旬、ニュー・オーリンズに着いた日の夕方、 チャーリーは私たちに会うため、奥さんのフランシス (Frances)と一緒にテキサス州のヒューストンからドライブしてやってきた。相変わらず陽気で、テキパキとスケジュールについて話し始めたチャーリーは、ちっとも変わっていなかった。「ケイ、どうだい、これからトムのところにいってやろうと思うんだが」 「僕もぜひ彼に会いたい」私たちはチャーリーの車でトムの家に着いた。
 と、車の窓ガラスを通して玄関に太った中年の男が立って、ジーと視線を注いでいるのが見えた。「トムかい?」 と言う私の問いかけを引き継ぐように、チャーリーは 「ケイ、トムのことは前に知らせた通りだが、手術後もあまり良くなったとは言えないんだよ。今回は顔を見に来ただけにして、あまり長く話さないようにしてくれないか?」 「分かった」 という返事とともに、私は車のドアを開けた。「ケイ!」 と少ししわ枯れたようだが、大きな声でトムが私たちに声をかけた。玄関の階段から急ぎ足で降りてきたトムは、私に両手を差し出し、シッカリと握手した。しかし 往年の元気な青年の姿はなく、慢性心疾患患者に見られるやつれた顔がそこにあった。チャーリーとトムの間だけではなく、私とトムとの間にも20年の歳月が流れていたのだ。チャーリーとトムの間に双生児としての類似点を見つけるのも難しいほど、顔ばかりでなく体型にも相違が見られた。健康に歳月を過ごしてきたチャーリーとトムを見比べながら 「この2人は本当に双生児だったのだろうか?」 と声には出さず私は密か思った。
   人は病気をすると人相が変わると言われるが、トムの場合は誰の目にもそれがハッキリと分かるほど、人相や体型まで変わってしまった。手術により健康を取り戻すことができなかったのだろう。私はトムに「学会のスケジュールで十分話が出来ないンだ。またニュー・オーリンズに来た時に会おう」と言って別れた。それがトムとの最後の会話になってしまった。

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 1993 年 9 月 14 日の午後である。当院の看護師から 「先生、外国の男性の方からお電話です」と言われ、受話器を取った。「ハーイ、ケイ! チャーリーだよ。チャーリー・ペンダグラフト」 「やあ、チャーリー! 驚いたな。一体どこから電話を掛けているンだい?」 「東京からだよ」 「えっ、東京? 先日知らせてくれた予定より1週間も早いじゃないか!」 「そうなンだ。我々のスケジュールが急に変わったことについては、明日、新幹線で午後3時に大阪に着いたら話すから、とりあえずホテルを予約してくれるかい?」 と、チャーリーは用件だけ伝えると電話を切った。 もう少し詳しく、東京のどこから電話を掛けているかを知りたかったし、連絡先の電話番号もと思ったのだが。
 その年の春、私はチャーリーからの手紙でトムが心不全を起こし、あらゆる手を尽くしたが、ついに他界したことを知らされていた。二卵性ではあるが、あれほど仲の良かった双児の兄弟の一人を失ってしまったことで、チャーリーの胸中を察した。 そして7月になって「9月下旬に日本を訪問する予定だ」という手紙が来たのだが、その後、連絡がないので 「どうなっているのだろう?」と案じていた矢先だった。

 当時、徴兵される前の会社(General Electric Co. Ltd.)でチャーリーのルームメイトにブルース・スナイダーがいた。彼らは6ヵ月仕事をともにした後、チャーリーは陸軍に、ブルースは海軍に配属された。そして、チャーリーは日本に、ブルース はドイツに赴任したのであった。 チャーリーは陸軍大佐、ブルースは海軍大佐の階級を最後に2年前退役軍人となったのである。2人が1年前から計画していたのは、ほかならぬ今回の日本訪問である。チャーリーにとっては実に39年ぶりの日本への再訪であり、ブルースは初めてのアジアへの旅だった。チャーリーとブルースが考えた作戦は、アメリカから日本までの飛行機のヒッチハイクだった。
 これには少し説明を付け加えなければならない。貨物輸送用ジェット機の一部には約15名の席が用意されており、アメリカの陸海空軍の佐官クラスの軍人は退役すると、世界中貨物輸送機を乗り継いで、どこにでも行けるそうだ。何ともこれは彼らにとって結構な話だが、日本の自衛隊にもこういう制度があるのだろうか? そしてチャーリーとブルースがこの計画を第一に打ち明けたのは、彼らの奥方たちである。現役軍人として在任中、 ほとんど家にいなかった元気な亭主が、退役後、毎日家でゴロゴロし、顔を突き合わせているのは何とも嵩高い! ブルースが約2ヵ月前に日本にチャーリーと旅行に出かけると話したところ、彼の奥方は「まあ、なんて素晴らしいこと!」と満面に笑みを浮かべたそうだ。「亭主元気で留守がいい」とは、洋の東西を問わず共通したコンセプトである。そしてこの2人はしばしの間、 奥方たちから解放されることになった。
 ヒューストンの空軍基地を後にしたのが5日前のことである。まずコロラド州のデンバー空軍基地へ飛んだ。すぐに連絡の輸送機がないので、空港内の将校宿舎で 1 泊。 そして翌日搭乗した輸送機はワシントン空軍基地へ。次の輸送機はアラスカのアンカレッジ空軍基地へ。ヒューストンから半袖で出掛けたチャーリーと、フロリダからやってきたブルースたち「大佐殿」は、アラスカの零度に近い肌を刺す寒さに震え上がった。2人は大急ぎで空港内のPX (軍隊内の百貨店)でジャンパーを買った。そして翌日、 アンカレッジ空港を飛び立ち、日本の横田空軍基地に辿り着くことができたのである。 横田からJRの電車を利用して東京に出ると、あまりにも近代化された日本の建物や風景に目を瞠った。何よりもチャーリーを驚かせたのは、東京の都心の美しさであったという。
 そしてチャーリーは私に電話を掛け、 翌日の午後、新幹線で新大阪に到着した。「やあ、チャーリー」 と声をかけた途端、私はチャーリーの顔を見て思わず息をのんだ。いくらチャーリーとトムが二卵性双生児 だったとしても、数年前にニュー・オーリンズで出会ったときのチャーリーの顔とは全く違っていた。私の前にいるのはどう見ても、ニュー・オーリンズで4年間を見てきた少し暗い表情のトムとしか思えないのだ。そして私がしばらく会わなかった間に彼は右膝を痛めていた。 話し方もトムのようにゆっくりと一語一語区切って話す。電話では分からなかったが、輸送機のヒッチハイクの疲れもあってか、やつれて見えた。 「元気だったのかい?」 「ああ、私は元気だよ。今年の1月にトムは遠いところに行ってしまったが、私は生きているうちにもう一度日本に帰って来たかったんだ。日本は、すっかり風景が変わってしまって驚いた。ブルースは日本が全く初めてだし、私が付いていないと迷子になってしまうからな」 「誰だ、俺に日本はどこでも簡単に行けるからと言った奴は?」 とブルース。 「日本がそんなに変わったのかな?」と私。「本当だよ。それに若い女性の大きくなったこと! スタイルは良いし、太ったアメリカ女性とは雲泥の差だ」
 チャーリーの顔がトムになっていたのは、驚きよりも不思議な再会だったのかもしれない。しかし戦後間もなくの日本の風景を覚えている情報将校だったチャーリー にとっては、大変な驚きであったに違いない。それに日本女性のスタイルの向上には、ことのほか関心を示した。 毎日、体重 100kgを超えるような女性が闊歩しているアメリかの光景とは アメリにも異なっていた。
 チャーリーにとって 38年ぶりの大阪の印象は強烈だったようだ。もちろん、この間にチャーリーは妻のフランシスや、米軍病院での私たちインターンの友人であり小児科医であったドクター・テッド・ヘイウッド夫婦とヨーロッパにも数回旅行したことはあるのだが、今回の日本への旅は念願の旅だったのである。その夕方、私はチャーリーとブルースとともに知人の中華レストランで旧交を温めた。

 翌日の大佐殿の作戦は、1日で大阪を中心に和歌山、奈良、京都、そして大阪のチャーリーの古巣であった元第382陸軍病院を訪れることであった。 夕方、大阪に帰ってきた彼らとホテルで軽いディナーをとった。チャーリーは大阪の街はすべてが美しく変わってしまったが、現在の近代的な建物よりも、病院の前にあった狭い道路に昔の面影を見たのが感激だったと話した。

 そして1993年9月19日(日)、私はチャーリーと ブルースを乗せて新大阪から第2阪神国道を西へと走り、 武庫川を渡ったところで右折した。私たちには懐かしい 「甲子園ホテル」(1955年当時は将校宿舎として使われていた。現在は武庫川女子大学所有)の玄関に着いた。このホテルは東京の「旧帝国ホテル」と同じ建築設計者F・ L・ライトによって建てられたことは周知の通りである。レンガ造りの落ち着いた建物は今も美しい。「ここだけは全く変わっていない。昔のままだ!」チャーリーは思わず叫んでいた。しばらくして、私は 国道2号線を西に六甲山頂へと車を走らせた。チャーリーはさぞかし嬉しかったことだろう。彼には1954 年頃、任務で何度も訪れた神戸の街並みや、六甲山の姿が甦ったに違いない。六甲山頂には38年前のチャーリーが情報将校だった頃の良く来た仕事場があった(六甲山の最高峰には当時の KDD社が管理する通信用のアンテナがあった)下の駐車場で車を降りたときは普通であったが、最高峰に通じる細い石の階段を歩いて上っていくとき、彼は途中で急に立ち止まってしまった。「どうした?」と私が訊くと、「いやあー、大したことはない。少し息が切れてしまった。 普段、あまり運動していないからな。」 しかし、私の目には明らかに肩で呼吸をしているのが見えた。チャーリーの心臓の調子は大丈夫なのかと心配になった。 しばらくすると、チャーリーの呼吸も正常に戻り、 残りの石段を上り切った。 「そうだ。ここに建物があったんだ! 本当に私が生きている間に来られて良かった」 周りを見渡しながら、懐かしそうにチャーリーが言った。「センチメンタル・ジャーニーだな、チャーリー」 とブルースが呟く。私の脳裏には、懐かしい当時有名だったアメリカ人の歌手「ドリス・ ディ」の甘い歌声とともに “Gonna take a sentimental journey to renew old memories……” の歌詞とメロディが浮かんで、お互いに若かった頃のさまざまな想い出が甦った。そのとき、ポツリとチャー リーが言った。「トムにも見せてやりたかったな」 そして芦屋の自宅に帰った私たちは久しぶりに庭で バーベキューをして、2人を歓迎した。

写真-4  海軍大佐ブルース(左)と陸軍大佐チャーリー(右)

 ブルースは「まるで アメリカに帰ったようだ」と大喜びして、すっかり饒舌 になり、チャーリーも元気を取り戻した。 翌日、大阪を出発すると言うので、チャーリーとブルース が私のクリニックに挨拶にやってきた。そのとき、私は 5日前に新大阪駅で会ったときとは全く異なった彼の風貌に驚きの目を瞠った。「どうしたのだろう? チャーリーじゃないか!」 チャーリーの顔は晴ればれとして、私の知っている明るい表情のチャーリーがそこにいた。「昨日までのチャーリーは、誰だったのだろう」 この日のチャーリーから受けた印象は、家内も同じであった。「チャーリーとトムは一緒に日本にやってきたのだろう。 そしてトムが一足先にアメリカに帰ったに違いない」私はふとそう思った。
 「ケイ、本当にありがとう。また近いうちにヒューストンで会おう」「いや、今度は私の番だ。ケイ、この次はフロリダのわが家に来てくれ」 チャーリーに続き、ブルースが言った。そして陽気な 2人の大佐殿は、陸海共同作戦の次なるヒッチハイクに出掛けていったのである。そして4日後に「無事帰国した」とメールが届いた。


 その後、彼が1996年に右膝関節の骨頭置換術を受けたことは知っていたが、それ以来いつものように近況を知らせてくるチャーリーからしばらく音信が途絶えていた。私もクリスマス・カードでしか近況を知らせていなかった。 2009年暮れ、チャーリーから久しぶりにメールが来て驚いたことは、彼は「大動脈弁閉鎖不全」のためその春、ヒューストン市にあるメディカル・センターで手術を受け、その後は順調に回復しているという報せだった。 トムとチャーリーの二卵性双生児がともに「大動脈弁閉鎖不全」で手術を受けた事実はショックだった。「二卵性双生児の場合は疾患の発症率は、一般の健常者と変わらないという事実が正しかったのか?」と自問していた。インターネット で調べてみたが、一卵性双生児の場合の先天性心疾患の発症率は約30 %だが、二卵性双生児と心疾患に関する詳しい研究は、見当たらず、インターネットで調べてみたが、健常者100人中、1~2名に発症する2弁性大動脈狭窄の発生率と変わらないという。(参照:https://www.jhf.jp/check/opinion/5-2/post_44.html)。

  「ケイ、君は半世紀経っても変わらないな。元気でいつまでも世界の若い後輩のために教育を続けてほしい。 我々の友情のように、生きている間はお互いに現役でいこうじゃないか」 チャーリーと私の友情は半世紀を超えた今も変わらない。彼は心臓手術のおかげで 見事に健康を取り戻し、今ではヒューストン市で彼が住んでいる地区の地下暗渠排水の設計図を引き、地域住民のためにボランティア活動を積極的に行っていると手紙がきた。そして彼の孫の話から始まり、自宅の庭のガーデニングを夫人のフランシスとともに楽しんでいると記されていた。「毎日1時間はフランシスとともにウォーキングを 欠かさず行っている。ケイも毎日、診療や教育活動をやっているようだが、運動を忘れずに健康に過ごして くれ」 それがチャーリーからの最後の手紙(2013年秋)となった。

 その翌年、チャーリーも心不全を起こし、亡くなったと妻のフランシスから連絡があった。「ケイ、双子の兄弟って、やはり体質が同じなのかしら?」とフランシスが聞いてきた。聡明な彼女はソーシヤル・ワーカーとして現在も働いている。

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