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【理事長ブログ】『チャーリーとトム』(その1)

『チャーリーとトム』(その1)

ジェックス理事長  髙階經和

 

 私が1954年から今日に至るまで一番長く交際を続けていた「友人」と言えば「チャーリー」である。フルネームは「チャー ルス・N・ペンダグラフト」(Charles N. Pendergraft)という。
   1950年に開戦した朝鮮戦争は1954年、私が大学を卒業する頃に終わった。私がインターン研修を受けたのは、当時、大阪にあった第382米国陸軍病院でそこに若い情報通信将校のペンダグラフト中尉が着任してきた。彼は陸軍に召集されるまでゼネラル・エレクトリック社でエレクトリック・デザイナー(Electric Designer of the General Electric Co. Ltd)として働き、特に通信ケーブルの専門家であった。日本での仕事は米軍用通信網の西日本地域での総責任者を務めていた。
 チャーリーは、我々 4人の日本人インターンが寝起きしていた将校宿舎で一緒に生活していたことから仲間になった。日本駐留の2年間にあらゆるチャンスを生かし、日本人の生活や習慣、そして風景などを写真(当時はカラー・スライド)に収めていた。そして少しでも分からないことがあると私たちインターンに質問した。 今から考えてみると、これが情報将校としての彼の仕事だったように思える。
 チャーリーは着任して1年も経たないうちに流暢な日本語を話せるようになった。同時期に着任した他の将校たちと比べて、日本語の上達レベルは遥かに高かった。他の連中はチャーリーの日本語の上達ぶりに「彼は情報将校だから、日本語が上手くなるのは当然だ」とやっかみ半分に言っていたが、どうもそうではないらしい。言語中枢の発達度合いは生まれつきのものがあると私は思う。何年アメリカに住んでいても日本語混じりの変てこな英語(pigeon English)を喋っている日系一世たちの何と多いことか(これは私が1958年にニュー・オーリンズ市のチャリティ・ホスピタルに入院してきた「大久保彦左衛門」氏もその一人だったからである)。それに引き替え、ほんの2 ~ 3ヵ月の滞在中にほとんど日本人と変わらないくらい日常会話をこなす人も結構いる。チャーリーもその一人だった。きっと言語中枢の神経回路が発達していたに違いない。
 彼の話し方はいつも非常に明快かつ論理的であり、医師である私にも随分役に立った。やがて2年間の陸軍での仕事を終えた彼は日本を発つことになった。「ケイ(Kayとは私のニックネーム)、私の二卵性双生児の弟が、ニュー・オーリンズに住んでいる。もしアメリカに来るような機会があれば、ぜひ彼に会ってくれないか?」 「チャーリー、勿論だよ」 と返事したが、まさか3年後に私たち夫婦がアメリカに渡り、4年間もニュー・オーリンズに住むことになるとは予想していなかった。それは人間がそうしようと思っている願望(wish)が続く限り、物事がその方向に向かっていく潜在的でサイコダイナミック・ドライヴ(psychodynamic drive)が働いているのではないだろうか。

 

 もう一人、心に残るドクターがいた。私のインターン生活が後半に入った頃に徴兵軍医大尉として、この陸軍病院に配属されてきたのが、ドクター・ジェームス(Dr. Capt. Thomas N. James)である。彼は徴兵されるまではニュー・オーリンズ市にある「オックスナー・クリニック」で心臓内科部長として勤務していた。

写真-1  ドクター・ジェームス

 彼が着任して私が内科のインターンとして勤務していた時、彼の診察振りを見て驚いた。 アメリカ人のドクターにしては珍しくチャートを活字体文字で素早く書いていく。そして一人の患者を、文字通り頭の上から爪先まで隈なく診察していく姿は完璧で、ベッドサイド診察法のあるべき姿を見せつけられ圧倒された。大学時代に教授の診察をしばしば見る機会があっ たが、彼のように綿密な診察を行っていた姿に接したことはなかった。
 ドクター・ジェームスは本当に日本が好きだったらしい。彼は特に京都が好きで、いつも奥さんと子どもを連れて出かけていた。そして彼のコレクションは、清水寺の近くの土産物屋で集めた日本酒の盃だったそうだ。しかしドクター・ジェームスは一滴も酒を口にしなかったのである。
 私はドクター・ジェームスから、身体診察のABCや臨床における鑑別診断の重要性を学んだ。そして彼が私の最初の師匠(mentor)となったのは言うまでもない(*ドクター・ジェームスは、帰国してからチュレーン大学に戻り、心房内における伝導路の研究で「ジェームス束」の存在の可能性を示唆し、また心筋梗塞で死亡した患者の冠動脈に液体状プラスチックに圧を加えて流入し、立体的に病変部位を実証する病理的研究など、数々の素晴らしい研究を行い、全米のみならず、世界中の心臓病専門医に大きな影響を与えた。彼は後にテキサス州ガルベストン大学 医学部長、アメリカ心臓協会会長を歴任し、生まれ故郷のアラバマ州バーミンハムで輝かしい生涯に幕を閉じた(1925‒2010)) 。
 私が将来、ぜひアメリカに留学したいという希望を持っていることを聞いた彼は、自分の母校であるニュー・オーリンズのチュレーン大学医学部の恩師・内科主任教授のバーチ教授(Prof. George E. Burch)に手紙を書いてくれた。 こうして彼の推薦により、1958年8月3日に結婚したばかりの妻を伴って、チュレーン大学内科のリサーチ・フェロー として勤務することになった。そしてバーチ教授が、2人目の師匠となった。 ニュー・オーリンズに到着後、チュレーン大学の学生や職員たちが住んでいるニューコム・キャンパスに移った。

写真-2 ドクター・バーチ
(Prof. George E. Burch)


 そのキャンパスに引っ越して翌日のことである。朝早くからドアをノックする人が いる。「どなたですか?」(Who is this?)と声をかけると「私はトム。トム・ペンダグラフトだ」(I’m Tom. Tom Pendergraft)という返事。急いでドアを 開けると「やあ、ケイ、ようこそニュー・オーリンズへ」(Hi, Kay, Welcome to New Orleans.) と言って右手を差し出した男の顔は、驚いたことに何とチャーリーと瓜二つ。双子の弟のトムだった。

写真-3 トム、筆者、妻の幸子、チャーリー

 トムはそれから1週間に1度は私たち夫婦を訪ねてきた。当時、独身だった彼は、私たちが買い物に行くときは気軽にどこにでもついてきてくれたし、アメリカの生活に不慣れな私たちのため本当に親身になって、いろいろと面倒をみてくれた。私たちも「トム」とは、日本で知り合った「チャーリー」とほとんど同じ気持ちで接していた。トムとチャーリーは『2人は1人』だったのである。
 1959 年春、私たちはトムの車で、チャーリーに会うためヒューストンまでドライブした。 どんな些細なことでもトムに話しておけば、その情報は間違いなくチャーリーに伝わっていた。双児の物語は 小説や映画にもよく登場するし、珍しいことではない。 チャーリーとトムは一卵性双生児ではないので、よく観察して見ると、チャーリーの方がトムより少し背が高く、 頭髪もわずかにウェーブが掛かっている。そして後になってある日、トムが「頼みがあるのだが、私の心臓の音を聴いてくれるかな?」(I’d like ask you a favor. Would you mind to listen my heart sounds?)と言ってトムは「自分には子供の時から軽い大動脈弁閉鎖不全がある」ことを自分から話した。私はトムに「今までに大病をしたことはないか?」「リウマチ熱に罹ったことはないか?」「何か症状はあるか?」と細かく質問してみたが、いずれも答えは「ノー」であった。トムの話では、彼が初めて心臓に雑音があると医者から言われたのは、小学校に通う前だったという。

図-1 手の掌紋は基本的に4つの区分に分けられ、手首の部分に軸三角(T)が認められる。(註:参照:Takashina,T.and Nakamura,K.: Palmar dermatoglyphic in Heart Disease. JAMA, 1964:197; 659-662)

図-2  純大動脈弁閉鎖不全


 そして私はトムに「君の運勢を占うから、手相を見てやろう」と言って彼の両手の手の掌紋を観察した。「俺の運勢は悪いのだろう?」 「いやいや、そんなことはないよ。なかなか良い手相だ」 と返事したが、先天性心疾患の患者に好発する所見として、彼の両手の掌紋の軸三角は小指側に変位していた。そのとき、 トムの大動脈弁閉鎖不全は先天性畸形の「二弁性大動脈弁」によるものではなかったかと考えた。
 一卵性双生児の間では、がんの発症率が高く、脳の発達障害などの発症が高いという報告が散見される。しかし 心臓血管系の発症率に関する報告はあまり見られない。 二卵性双生児の発症率は単生児と変わらないというのが、一般的な考え方である。

 

 私たち夫婦が4年間の留学を終え、1歳半になった長男を連れて、ユニオン・鉄道でニューオーリンズ市から、ロスアンジェルスへ旅立った時、私たちを見送ってくれたアメリカ人の数は45名だった。
 その中にトムもいたが、「ケイ、こんなに大勢の人が見送りに来るなんて、信じられないよ。余程、アメリカ人の友人たちが君たち夫婦を敬愛していたってことだよ。」と言った。

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【コラム】
 これは私が父親から聞いた話だ。大阪大学医学部 で父と同じクラスに一卵性双生児の兄弟がいたそうだ。口頭試問で兄貴の方が先に入って担当教官の試問を受けた。続いて弟の方が部屋に入ると、担当教官は驚き、声を荒げた。 「君、2 回も口頭試問を受けるとは何事だ!」 「いえ、私は弟の方ですが・・」 「冗談を言っちゃいけない。私は一卵性双生児だったら一目で鑑別が付く」 そこで弟は仕方なく、部屋の外にいる兄を呼びに行った。 そして担当教官は前に並んだ 2人の顔を見て絶句した。「信じられん・・」二人の顔や姿形は瓜二つだったという。

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