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『ハイポスキリア』(Hyposkillia)

『ハイポスキリア』 (Hyposkillia)

 

≪はじめに≫

 「ハイポスキリア」とは、聞きなれない言葉ですが、2005年にテキサス大学健康科学センター所長のハーバート・L・フレッド(Herbert L. Fred ,MD, MACP) が、論説の中で提唱しました。 (参照: Texas Heart Inst J. 2005;32(3):255-257)

 「ハイポスキリア」とは、「臨床手技欠乏症」=Deficiency of Clinical Skills のことであり、臨床医の基本である臨床手技を習得できずに、大学医学部や医科大学を卒業した医師の事を意味します。

20世紀後半まで患者を中心に考えるアメリカの医療が、心エコー図に代表される医療工学の臨床面への導入によって、診断精度が一気に高まり、従来の医師が習得したベッドサイド診察手技を越えた存在になってしまったことが契機となりました。そして臨床における「医師と患者」の信頼関係を希薄化させたのです。

 1958年-1962年の4年間、私はニューオーリンズ市にあるチュレーン大学内科にクリニカル・フェローとして留学しました。当時、既に世界的にも卓越した臨床医であり教育者であった内科主任のバーチ教授(Prof. G.E. Burch)から臨床心臓病学の素晴らしさと醍醐味を学びました。2020年の今日に至るまでその印象は変わっていません。半世紀に亘って、臨床心臓病医として臨床・教育・研究に携わってきた経験は、私にとって何物にもかえがたい知的財産となりました。また、半世紀にわたる医療の変遷を見てきました。ここにドクター・フレッドの「ハイポスキリア」の内容を概説しましょう。

 

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≪「ハイポスキリア」の意味≫

 今日の医療は多くの問題を抱えています1―2)。私が提唱する「ハイポスキリア」とは、「臨床手技欠乏症」を意味します。この状態に陥った医師たちは、患者のための医療ができなくなっているのです。さらに、今や全米のレジデント研修プログラムは、「臨床手技欠乏症的な医師」の数をますます増やしているのです。

 洗練された医療面接の出来ない医師、信頼に足る診察ができない医師、患者から集めた医療情報を論理的に評価できない医師、正しい患者のマネージメント・プランを立てられない医師、自分の臨床能力に自信が持てない医師、そして患者とのコミュニケーション能力に乏しい医師たちです。さらに付け加えるならば、彼らは患者を1日に何度でも診察し3)、その疾患の病態生理を考えて理解することに殆ど時間を使っていないのです。彼等は全ての患者を素早く診察するため、その疾患の自然歴を学ぼうとしていないのです(中略)。

 しかし、彼らは多くの新しい知識を習得することに優れています。彼等は全ての臨床検査や、その順序を知っていますが、その指示をいつ出すのか、或いはそのテスト結果をどう理解するのかについて殆ど知らないと言うことです4)(中略)。

 

≪「ハイポスキリア」の原因≫

 「ハイポスキリア」は、長期にわたり、全米から世界中に広がっていったのです5-16)。残念ながら、その原因は明らかに「教育法の誤り」にあります。勿論その原因は、我々「臨床教育指導者」にあります。では、なぜ我々の誤りが益々拡大し続けることを許したのでしょうか?その答えは2つの要因からなると思われます。

 第1の要因は社会全体の価値観や優先順位が、かつて我々が学んできたものとは、異質のものになったということです。例えば私がトレーニングを受けた1950年代には、病院での勤務に全力を尽くし、一生懸命に働き、医師としてのプライドを持ち、厳しい訓練に耐え、その結果、卓越した臨床能力を身につけることを求められました。しかしながら、今日では勤務時間や治療にたいする制約があり、医師としてのプライドは殆ど無くなってしまいました。その結果、医師も一市民となり、多くの医学生、そして教育スタッフの全てを巻きこみ、彼らが知っている唯一つの言葉は「医師も平凡な人間」だということです。

 私が考える第2の要因は、医学教育を受けてきた病院のスタッフや、臨床指導医にあると思います。今日の教育スタッフの殆どが、1970年代後半に研修を受けてきた医師であり、近代的な医用工学が臨床診断に使われることが当然だと考える医師たちであり、「ハイテク医療」が彼らの知っている全てであり、それを医学生たちに教えます。それは彼らの誤りではなく「ハイテク医療」が、今までの「患者のための医療」として診療に当たっていた医師たちにプライドを感じさせなくなってしまったのです。

 

≪「ハイポスキリア」を改善させるには≫

 この問題を根本的に改善するのに必要なのはなんでしょうか?我々の仕事は若い医師たちに迎合するのではなく、彼らを教育することにあります。我々は若い医師たちに各疾患の病態生理や、臨床像、そして疾患の自然歴を知ることの大切さを教えることです。臨床検査を行うとすれば、そのテストの意味は何か?テストの結果をどうか解釈するかであり、ハイテク機器を使う教育スタッフは、彼らの臨床診断を教えるだけでなく、ハイテク診断が何故必要だったのかについて、その目的を明確に医学生や、若い医師たちに教えることが必要なのです。

 指導医が必要とするのは、病歴の価値を理解し、それを診察に生かし、論理的に考え、その思考過程を明確に説明できることです。心弁膜症の診断を付けるために、最初に心エコー図検査を行うのではなく、聴診器により心音・心雑音の鑑別ができる指導医、高血圧や糖尿病の患者で脳血管障害を疑われる患者に対して、直ぐに脳MRI検査を指示するのでなく、眼底検査を行うことが出来る指導医、チアノーゼを発見するのに血液ガスを調べる前に、患者の四肢や、手掌を綿密に視る指導医、肝脾腫を発見するのに綿密な腹部触診を行った後で腹部CTスキャンを指示する指導医、何時も患者のベッドサイドで、彼らの脳を使い、暖かい心を持って患者に接する指導医を必要としています。

 私が提唱する「患者のための医療」とはどういう意味でしょうか?それは患者と向き合い、注意深く病歴を取り、周到な身体診察を行い、その結果、得られた情報を正しく評価できることを意味します。そして医師はもし必要ならばどんな検査が必要かを考えます。決して高額な検査ではなく、より簡単にできる最初に指示するでしょう。

 それとは反対に「ハイテク医療」では、医療面接や身体診察を軽視もしくは行わず、患者の主訴だけに注目し、直ちにMRIやCTスキャン、あるいは両方を指示します。 

 もう一つの重要なポイントは、診察も行わずに「ハイテク技術」から始まるアプローチをすることが、「医師と患者の絆」を希薄化させていきます。一方、「患者のための医療」とは、医聖ウイリアム・オスラーが唱えた医療に対する理念を意味します。それは「患者を癒し治す」ことであり「病気だけを治療する」ことではありません。

 

≪医師の勤勉さを取り戻すために≫

その底辺にあるのは次の事実です。

 近代的な医療機器は、疾患の診断や治療に大きく貢献してきましたが、その一方では医師たちの勤勉さを失わせてしまったのです。CTスキャンや、MRI、時には両方の検査を使用することが習慣になってしまうと、身に備わった医師の診断能力、つまり「脳」を使って診断するという習性を妨げてしまったのです。

 これらの習性をもとに戻すことは可能でしょうか?それは難しい問題です。

 最近の医学教育者には、2つのグループがあると考えられます。その1つのグループは医学知識を十分に持ち合わせているが、臨床経験の浅いフェローや若い指導医たち、そして他のグループは専門分野の狭い範囲だけに熟知した年配の教授たちです。

 この2つのグループは、殆ど彼らの時間を講演や論文の執筆、大学、病院や研究室での仕事を優先し、彼らの分野の学会に出席する旅行に時間を使っています。彼等は大学や研究室にいても、教育スタッフと臨床研修医との時間を極めて少なくしているのです。

 彼等が教育に使うのは、患者のベッドサイドに立ち議論するのではなく、主として臨床講堂や、カンファレンス・ルーム、あるいは広い廊下です。この限られた時間で、教育スタッフが研修医や学生たちを教えている有様を、私は「目の不自由な人が目の不自由な人の手を引いている」(the blind lead the blind)17)と呼んでいます(中略)。

 残念なことに、1970年代に研修を受けた素晴らしい臨床指導医たちの多くが既に現役を去り、あるいは亡くなっています。また高齢になっても若い医学生や研修医と定期的に接触を続けている指導医たちは、近代的なハイテク技術の臨床面への応用について議論の出来る人が殆どいないということです(中略)。 

 

≪ウイリアム・オスラーの医療理念を≫

 現状を改善するのは難しいかも知れませんが、もう一度ウイリアム・オスラーの医療理念に立ち返り「医療がビジネス」ではなく、我々がプライドを持って患者を治すことが大切だと考えています。我々は高額な治療を行うのではなく、従来のより安価なテストを使っても十分に診断が出来うるという「芸術的なセンスと実行力」を医学生や、若い研修医たちに教えることが大切だと思うのです。そして我々が治療したから疾患が良くなったのではなく、患者自身の体力や回復力によって健康を取り戻した「自然歴」をもう一度認識する必要があります。「我々の医療は患者のためにある」という医療理念を、年齢の如何に拘わらず、若い医師たちに伝える臨床指導医を必要としているのです(後略)。

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≪まとめ≫

 Dr.Fredの言葉一つ一つに私は共感を覚えました。恐らく私と同時代に臨床研修を受けた彼が語り掛ける話の内容が、私の提唱している「医患共尊」という医療理念と一致したからでしょう。

 世界中がコロナ禍の影響により、臨床実習など対面研修が難しくなったいま、オンライン研修が医学部教育や、卒然・卒後教育にも求められていますが、読者の方々が自身の創造性と行動力を発揮し、現在の状況を乗り越え、真の医療とは何かを考え直し「患者のための医療」を押し進めて頂きたいとねがっています。

                                             ジェックス理事長    髙階經和

 

文 献:

  1. Zuger A. Dissatisfaction with medical practice. N Engl J Med 2004;350:69–75. [PubMed]
  2. Fred HL. On the sagging of medical professionalism. Texas Medical Board Bulletin 2004;2(1):1,3.
  3. Peabody FW. The care of the patient. JAMA 1927;88:877–82.
  4. Fred HL. The numbers game. Hosp Pract (Off Ed) 2000;35(7):11,15–6. [PubMed]
  5. Wiener S, Nathanson M. Physical examination. Frequently observed errors. JAMA 1976;236:852–5. [PubMed]
  6. Duffy DL, Hamerman D, Cohen MA. Communication skills of house officers. A study in a medical clinic. Ann Intern Med 1980;93:354–7. [PubMed]
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  10. Greenberger NJ. From the president: whither the patient history and physical examination? ACP Digest 1990;10:2.
  11. Li JT. Assessment of basic physical examination skills of internal medicine residents. Acad Med 1994;69:296–9. [PubMed]
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