もののけ姫の森

「もののけ姫の森」 (2009.5.27 更新)

「もののけ姫」と言えば、宮崎駿さんが1997年に発表した長編アニメ映画の題名である。素晴らしい色彩に溢れるアニメは従来の作品には見られなかった独特の世界を生み出した。主人公の山犬の心と人間の体を持った少女「サン」が、山犬「アシタカ」の傷を癒すシーンは感動的だ。その舞台の背景となったのが、九州の最南端に浮かぶ屋久島。その島の北部に位置する白谷雲峡の原生林である。
そして4年後の2001年7月に日本で公開された「千と千尋の神隠し」は、やはりこの屋久島が映像の背景となった。宮崎駿さんのこの作品がウォルト・ディズニーの作品を抜いて、アカデミー賞のアニメ映画部門で最優秀賞に輝いた事は皆様もご承知の通りである。
私は以前から是非とも、屋久島を訪れ、この目で平成6年に世界自然遺産に登録された屋久島の縄文杉をこの目で見たいと思っていた。やっと念願がかなってその夢が実現する事になった。

 

2008年5月3日、土曜日の早朝6時50分に家を出発。快晴である。大阪空港から午前8時10分発のジェット機で出発、無事に鹿児島空港に着いた後、JAC3743便で、午前10時40分、鹿児島空港を飛び立ち、35分後に予定通り、屋久島の南側に位置する狭い空港に降りたった。早速、空港から乗った観光バスで数時間、先程述べた「宮崎駿」のアニメ映画の世界になった「千尋の滝」(センピロのたき)、「大川の滝」(おおこのたき)を眺め、ガイド嬢が「どなたか「モッチョム岳」に登ってみようと思う方はありませんか?」の問いかけに、ガスの中から60度の角度で聳え立つのを見上げると、余りの急峻な岩の絶壁を目の前に見せられると、流石に誰も登攀に挑戦しようとする人はなかった。ほぼ円形の形をした屋久島の一週道路の両側には、ハイビスカスや、バナナの木、ブーゲンビリア、そしてパパイアなど、南方の植物や、果物が島全体に溢れていた。ガイド嬢の話では、北海道から南の国にいたるあらゆる花や、植物が見られるという。そしてこれらの果物を、集団で狙う野生のサル達の姿を道路のあちこちで見ることができた。有刺鉄線や、電流の通った囲いが各家々を取り囲んでいる様に、何か違和感を覚える。それに屋久島に独特の小さな体格の可愛い「やく鹿」をあちらこちらで見ることもできた。勿論、山の中には毒蛇もいると聞かされ、明日のトレッキングはどうなることかと、おっかなびっくりであった。

 
観光の後、私達が二泊する「あかつき・ホテル」にチェックインすることになった。大阪を発つ前、案内の文面を読んだ印象では、「このホテルは民宿のようなものだ」というイメージを持っていた。バスが国道から外れ、何度も曲がりくねった急な坂道を登ったところにそのホテルはあった。しかし、バスを降りて何よりも我々を驚かしたのは、その景色の素晴らしさだった!玄関からホテルのロビーの反対側にある天井までの高さのドアが左右一杯に開かれ、正面は広大なプールがあり、そのプールの水が一杯になると、海の側に溢れさせるように設計されているので、プールの水がその海と一体となって、紺碧の空と果てしなく広がる大平洋の雄大なパノラマは、あたかもミュージカル「南太平洋」の舞台に出てくる様な美しさだ。杉の林に囲まれた大自然の美しさに包まれ、宿泊する二階建てのコテージが点在している。フロントで受け取ったのは、掌に納まる大きさの木彫りの「海亀」で、その口先にルーム・キーが付いたキーホルダーだった。そのキーでドアを開け、部屋に入って更に驚かされたのは、タイ風の南国情緒溢れるインテリヤである。天井から壁、床に至るまで全て東南アジアから輸入された木材が使われ、木の温もりが伝わってくる。今までに各国のホテルに泊まったことがあるが、このホテルは最高級のクラスに入る。従業員が、本館ロビーからゲストを其々、コテージまでカートで運ぶ。

午後6時から本館の食堂で夕食をとったが、このホテルの代表取締役「岩永志昭」氏が、各テーブルを回って丁寧に挨拶をした後、自分は定年まで清水建設に勤務した後、このホテル全ての設計を自分で行なったという話をされた。そしてホテルの女性従業員の都市ホテルも及ばぬマナーと、洗練された身のこなしに思わず、屋久島に来たことを忘れさせるくらいだった。夕食後、本館から坂道を下りながら夜空を見上げると、天の川が流れ、夜空一杯の星を眺めることができた。いまではすっかり都会では見られなくなってしまった美しい自然に包まれ、部屋に帰ると、すぐに翌日のトレッキングに備えて、午後8時過ぎにはベッドに入って眠ってしまった。

 
2008年5月4日(日) 快晴。午前5時40分、水平線から朝もやの中から昇ってくる太陽の姿は荘厳である。午前7時の朝食の際にも、件の岩永氏は顔を出し、各テーブルのゲストに挨拶をして回りながら、屋久島の魅力や、また雨の凄さ、そして毎年この島が台風の通り道であることなどを、事細かに話してくれたが、ホテルのトップが自らサービスする姿は実に爽やかで印象的である。さて、出発に先立ち、バスに乗ろうとしたところ全員の靴を点検している係りの叔父さんが、私の靴を見て「大丈夫かな?」と首を傾げた。散歩用のシューズではあるが、トレッキング・シューズではなかったからだろう。午前8時、バスで出発したが、途中でバスが止まり、72歳の「久保園」さんという小柄な体格のガイドのおじさんがバスに乗り込んできた。「皆さん、こんにちは。今日のガイドをさせて頂く「久保園」です」と、挨拶をした。我々も其々挨拶をして、約一時間の後、登山口になっている白谷雲水峡の駐車場に到着した。久保園さん曰く、「私は年輩のグループの方が山に登る時は、必ず声が掛かるのだ」と言った。彼は観光バスの運転手を35年間もやっていたと後で聞いたが、本当の山好きなのである。今から何億年も前に海底から盛り上がって出来た島の一部の最高峰が、平成6年に世界自然遺産に登録された。周囲は132キロ、面積500Kmの岩石できたほぼ円周の島である。そして地震はない。六千年前にこの島が全部焼けて何一つ残らなかったと、久保園さんから説明を聞いた。確かに樹齢千年以上のものを「屋久杉」と呼び、千年以下のものは「小杉」と呼ぶ。しかし、実は約6000年前に屋久島は全島が、自然発火を起こして燃え尽きてしまったという話が残っているというのである。すると、樹齢7000年という「縄文杉」は、どうも計算が合わない事になる。「実は三〜四本の杉が合体して出来上がったと考えられる」というガイドの久保園さんの説明に納得する。この標高一九三六メートルの最高峰に早朝五時から登山することは、流石に我々のグループの平均年齢から考えても無理であろうとの結論に達し、登らなかった。しかし「白谷雲水峡」のある峻厳な険しい山道が私たちを待ち構えているとは思っても見なかった。登山に先立って、彼の指導で全身の準備体操をした後、歩き出した。はじめは比較的緩い坂道だったが、釣り橋を過ぎると、イキナリ急峻な原始林の山道が始まった。ここから久保園さんの台詞が始まる。

 
「足元を良く見て歩かないと危ないよ!」(凸凹の山道である)
「頭にも気をつけて!」(確かに木の枝が頭の高さにあった)
「手を使って、滑らないように。手は登山には一番の道具だからね。」
「石の尖ったところや、木の根っこに平行に足を置いたら駄目だよ!滑って足を捻挫することになるかね」
(自分でこういう風に足を置くといけないと実演して見せた)
「お母さん杖を使ってユックリ歩くンだよ!」
(グループの中に年輩の方がいた。といっても我々も相当な年輩だから、つまり我々全員への注意である)
「この木の棘を障っちゃ、駄目だよ!棘が刺さったら、病院に行って切ってもらわないいと駄目だよ?」
(結局、どの木だか分からなかった)
「この倒れた杉の幹から、こんなに小さな杉の木が、太陽に向かって真っ直ぐに生えているよ。凄いね、自然の力と太陽の光は」
(目の前に小さな杉が立っている)
「明治の前にこの島に来た鹿児島の役人が、大きな杉の木をある高さで全部切ってしまったンだ。そしてそれを山から降ろして家の建築材料にしたンだ。だから今の屋久杉は全長を残しているものが、ほんとに少なくなってしまった」
「ほら、この杉の一部分が膨れて瘤にようになっているところがあるでしょう?これは杉の物凄いエネルギーが詰まって生きているところだ。家具にしたら、この部分だけでも五十万円はするね」
(私にはどう見ても単なる瘤にしか見えないのだが、後ほど、久保園さんが杉の木にも瘤とそうでないものとの鑑別法を教えてくれたのだが、さっぱり分からなかった)
「今では、自然に生えている杉は、一本だって切ってはいけないのが規則だ」
 そして私達は、「七本杉」という巨大な杉の所で一服した。何でも七本の杉が一緒に合体して大きな幹の「屋久杉」になったとか。樹齢は千年を軽く超えているとの事。
「ここの景色はいいね、見てご覧!」(人が一生懸命に下を見て歩いているのに・・・)
「昼飯はすぐだよ」(といったと言った直後に)
「昼飯は抜きだよ!」(と、冗談を飛ばす)
出発してから丁度、中間地点に辿り着いた。そして漸くやや広くなった場所につき、ここで昼食ということになった。久保園さんは、参加者全員のためにビニールのシートを人数分、自分のリュックサックから出し、全員に配った。本当に良く気のつく人だ。
「今までに、どうしても我慢が出来なくてトイレに行ってから行方不明になった女の人が32人もいた。天候の悪い日などは、ガスがかかって3メートル先でも見えない。そのため、帰る道を見失ってしまったンだ」
「山は本当に恐ろしいよ。何が起こるか分からない」
「みんな帰りに怪我をする。登る時は誰も怪我はしない。脚元に気をつけて滑らないようにするンだよ」
「坂を下りる時は蟹のように横になって一歩づづ、横になって下りるといいよ」
「まえに、私のパーティではなかったけれど、最後の三段で脚を滑らせて10メートル下に落ちて、石に頭をぶっつけて即死した男の人がいたよ」(油断大敵だ)
「アラッ、鳥があんなに囀っているわ」と一人の女性が言うと、
「囀っているのではなくて、勝手に我々が森に入ってきたから、怒っているンだよ」
と矢継ぎ早に注意やら、ゾッとするような怖いことを言ってくれるのは結構だが、私達には周りの景色を見る余裕などなかった。
私は登る途中で、川の石を飛び越えるところで、靴の裏が滑りやすかったのか、右足を一瞬水に漬けたが、すぐに乾いた。

 
そして我々の目的の折り返し点となった「もののけ姫の森」に到着した。うっそうと繁った杉の木の根に苔が生し、太陽の光が森全体をボンヤリと照らし、幻想的な空間を醸し出す。正に宮崎駿が描いたアニメの世界がそこに広がっていた。兎に角、午前九時から夕方の午後五時まで、殆ど、この調子だったが、最後の釣り橋が見えてきたところから100メートルの急峻なロープを掴んでの降坂が一番きつかった。最後に樹齢3000年の巨大な杉を見たが、その後、久保園さんが再び言った。
「この階段は、注意して降りないと駄目だよ!コンクリートで出来ているから、転倒して顔でも打ったら、二目と見られないような酷い怪我を起こすよ!」確かに久保園さんの言った通りの急な階段は、コンクリートで出来ているために、かえって靴が引っかかるように感じたのである。私は用心を重ねて怪我しないように、最後の駐車場まで降りた。登山入り口に架かった橋から下を流れる川の水に心が癒された。しかし、足掛け八時間のトレッキング・コースを誰一人の脱落者もなく過ごすことが出来たのは、満72歳の「歩く縄文杉」と綽名が付いた「久保園さん」のきめ細かなアドバイスお蔭だったと感謝した。最後に久保園さんが私に向かって「しかし、私は貴方がお元気なので、本当にびっくりした」と、私の年齢を知っていたので、何度も私の健闘振りを褒めてくれた。屋久島で一番長老の名ガイド久保園さんが同行してくれたことで、私達は全員無事にホテルに帰ることが出来た。ホテルに帰ったのは午後6時15分であり、7時から一階のタイ料理の夕食も思った以上に、辛さも押さえてくれたせいか、美味しく食べることが出来た。夕食の際もホテル・オーナーの岩永氏は顔を出し、各テーブルを回って其々、「今日はお疲れ様でした。如何でしたか?」とゲストを労い、その日の出来事や、屋久島の雨の凄さや、この島が台風の通り道であることなどを、事細かに話してくれた。

夕食後、部屋に帰ったのだが、午後9時頃、私が寝ようと思った途端に、家内が「お風呂場にムカデが居る!」と叫んだ。起き上がってよく見ると、脚の数の多い全長8〜10センチ程のムカデではなく「ゲジゲジ」だが、バスルームの入り口のドアのところにいた。スリッパで叩き、ビニール袋に入れて外にほり出した。これで一件落着である。確かの何が出てきても不思議ではない。我々が自然の中にやってきたのだから。その翌日は、朝から凄い雨となった。久保園さんが言っていたが「ラッキョの様な大粒の雨」である。やはり南方の海洋気象だ。ところが、我々が午前9時にホテルを発つ時には小止みとなり、バスで「アオウミガメ」が産卵に上がってくる砂浜を歩き、亀の歩いた後を見つけた。「そうだ。このアオウミガメがホテルの部屋のキーホルダーのヒントだったンだ」ということに気がついた。午後3時過ぎ、屋久島空港を後にした頃にはすっかり晴天になった。鹿児島で大阪空港への便に乗り継ぎ、漸く午後6時には雨に煙る大阪空港に到着し、屋久島への旅は終わった。

*             *            *

しかし、屋久島の白谷雲水峡の旅は、普段八時間も凸凹の山道を歩く事がない私達にとって、流石に翌日、階段を登るのに脚が上がらないほど、両腿に筋肉痛を残した。しかし、それも日が経つにつれ、3日目には殆ど痛みが取れた。そこで私は、屋久島の原生林で、小川の石を渡る時に足を滑らせてしまったのは、靴のせいだったことを思い出し、一週間後の日曜日に阪急イングスへ「トレッキング・シューズ」を買いに出掛けたのである。店員の親切な男性の勧めでアレコレ試してみた結果、選んだ靴を持って意気揚々と帰宅した。さて、その翌週の日曜日、私は家内と共に六時に家を出発。件のトレッキング・シューズの履き初めである。近くのコンビニでおにぎりとお茶を買って、リュックサック(以前から、英語の辞書には「バックパック」と書かれている)に入れ、私達が昔住んでいた山、芦屋へと向かった。そして八年間も住んでいた懐かしい「山手マンション」の前を通り過ぎたのだが、余りにも人影がないので、不思議に思って各部屋の番号をよく見ると、広い四階建てのマンションに僅かに三家族しか、住んでいないことが分かった。一寸見ただけでは分からないが、この山手マンションが少し傾いたという話を大震災の直後に人から聞いた。そのため、恐らく13年前の阪神淡路大震災で僅かに傾いたマンションから、住人が次々転居してしまったのだろう。家内も私も同じく何となく暗い思いに駆られた。
マンションからすぐ上の道を右に曲がって橋を渡り、そして坂道を登り、「城山跡」と書かれた標識を見詰めながら、右に曲がった。新緑に覆われた山の景色は、つい二週間前に登った屋久島の白谷雲水峡を思い出させた。子供たちが小さかった頃、毎週日曜日に長男、次男を連れて登った山道が「こんなに急な坂道だったのか」と感じたのは、恐らく私達の年齢のせいだろう。私達は途中の大きな平坦な岩のあるところで腰をおろして、先程のおにぎりとお茶をバックパックから取り出して食べた。久し振りに城山への道を歩いて、朝食をこんなところでとるとは思っても見なかった。一服した後、山道を登って城山の頂上に着いたのは丁度、一時間後だった。大震災のために各所に大きな岩が転げ落ちて、以前に覚えていた登山道が可なり変わっていることに気がついた(この文章を書いている間も、東北地方の大地震や、中国四川省で起こった大地震のことが気に掛かって仕方がなかった)。

 
それから山を降りることになったのだが、「高座の滝」の方に下がっていくと、ここも大きく地形が変わっている事に気がついた。以前は真っ直ぐ下っていけば、良かったのだが、途中にダムが出来てしまって、そこに作られた鉄パイプの階段を下りるのは、屋久島の原生林よりもキツイと感じた。私達が高座に瀧のところまで下りてきて、ホットしたのは言うまでもない。少し休憩した後、コンクリートで階段が作られた坂道をユックリと下りはじめたのだが、私の左足の靴先が何かに引っ掛かったように思った瞬間、私はバランスを崩して、身体が宙に浮いたように感じた。そして左肘を何かに当てたように感じた時に体が止まった。私はその時に何が起こったのかは全く記憶していない。私の後ろを歩いていた家内が、バランスを崩した私の体が、まるで樽でも転がすようにユックリとコンクリートの階段を五段ほど下に転がっていったというのだ。咄嗟に「頭でも打ったら大変な事になると思ったこと」と、「すぐに救急車を呼ばなければ」と思ったと後で話してくれた。
「大丈夫?」と家内の声に気がつき、私は起き上がったが、少し頭がフラッとした。何所も怪我はしていない。それにメガネを掛けていたが、それも飛んでいない。シャツもズボンも何所にも損傷がないことが分かった。「一体、何が起こったのだろうか?」自分の中では、今起こったことが信じられなかった。恐らく新品のトレッキング・シューズの先がどこかに引っかかってしまったためにバランスを崩したのだろうと思った。これは全く私の不注意で転倒したのだが、幸い身体の各部を点検しても、右肘に僅かな傷が出来た程度で、頭も顔も全く打たなかった。それは、バックパックがクッションの役目を果たしてくれたためにコンクリートの階段にも体が当らずに転げ落ちたのだろう。骨折も起こさなかったのは、不思議な位である。神様に「お前はまだまだ社会に貢献しなければいけない身だ。怪我をしてはいかん」とお叱りを受けて、助けて頂いたと思っている。そしてどこかで「だから言っただろう!山を下りる時は、気を付けなければいけないよ!油断大敵だよ!」と久保園さんのアドバイスが聞こえてきたような気がして、大いに反省した次第だ。 
そして、これが「もののけ姫の森」の後日記である。
※本文は2008年に書かれたものです。