シドニーで見た「双羽の紋章」

シドニーで見た「双羽の紋章」 (2006.5.5 更新)

2003年12月30日、わたしはシドニーを再び訪れた。

今から30年まえの1973年9月1日、日豪医学教育交換プログラム発足させるため、シドニー病院を初めておとずれた。翌日の早朝、漸くここサウス・ウエールズ州は、冬の季節から早春の肌寒い気候に変わりつつあるところだった。わたしは病院から、青空のもとなだらかな丘に沿って緑の芝生が続く美しい植物園を横に見ながら、マックォーリ・ストリートを通って、その春にオープンしたばかりのオペラ・ハウスの方に向かって歩いていった。

 
1970年3月から9月まで、「万国博覧会」が大阪府千里丘陵一帯を会場として繰り広げられたが、その時、たまたま大阪を訪れていたオーストラリア人のマーティン・ウイーバー氏が急性心筋梗塞を起こしたため、淀川キリスト教病院に入院した。わたしはマーティン・ウイーバー氏の主治医となったのだが、彼は見事な体力で急性期を乗り越え約2週間で退院した。一方、彼は入院中に淀川キリスト教病院の親切なスタッフの態度や、我々の治療に大きな感銘を受けた。
このことが契機となり、彼は我々の病院に対して感謝の気持ちを表すため、淀川キリスト教病院から1人のドクターをシドニー病院に留学させ、またシドニー病院からも1人のドクターを当病院に留学させてはどうかという「日豪医学教育交換プログラム」を提案し、その資金として40,000ドルを寄付した。
 

わたしは医学交換教育プログラムのことについて、マーティン・ウイーバー氏と何度か手紙をやり取りしたが、3年後の1973年9月1日、シドニー病院のハリオット院長から客員教授として招聘を受け、このプログラム推進のため、シドニーを訪れた次第である。
その結果、淀川キリスト教病院からは内科の中島督夫氏、シドニー病院からはA.ギレスピー氏の二人が第一回の交換プログラム留学医師と決まった。
 

わたしは9月1日から9日間、シドニー病院のVIPルームに滞在したが、この病院にはかつて世界のナースの鑑であるナイチンゲールが働いていたことがあり、それが病院のスタッフにとっては、大きな誇りでもあった。わたしは毎日、病院での回診や、様々なカンファレンスに出席することができた。滞在中、特に気付いたことは、オーストラリアでは白血病患者が多く、シドニー病院にも白血病の専門病棟があったことである。当時、白血病の治療と病理研究のため、「兼松江商」の創始者であった「兼松房次郎」氏が、豪州で羊毛の輸入によって得た収入から莫大な金額をシドニー病院に寄付し、1933年に病理学の「兼松記念研究所」を完成させた事であった。シドニー病院関係者は兼松氏に対して、感謝と共に非常な敬意を払っていた。
第二次世界大戦の時もシドニーのノース・サウス・ウエルズ州政府が、研究所の壁に飾られた兼松氏の家紋である「双羽の紋章」(鷹の羽)を撤去しようと言い出したが、病院関係者はその申し出でを断り、決して取り外そうとしなかった。しかし、残念なことに州政府の財政上の理由から、1982年と1986年の2回に亘って、病院の人員や設備の削減が行なわれた。その結果、シドニー病院は、建物の一部が取り壊され、また長年続いてきた臨床教育活動も縮小されてしまった。
 

2003年1月2日の朝、わたしはホテルから約20分の距離にあるシドニー病院へ歩いていった。わたしが30年前に訪ねてから病院も随分、変わったことだろうと想像はしていたが、マックォーリ・ストリートに面した建物はそのままだった。しかし、入り口は閉鎖されていたのだ。「おやっ」と思いながらも、古い病院横の通路を通っていくと、やや新しい病院管理事務所が目に入った。そこで病院の責任者であるブルックス氏にお目に掛かることができた。彼は、わたしがシドニー病院を訪れた同じ年の1973年に、イギリスから病院のナースとして就職してきたのだが、その後、現在に至るまで病院の管理部門で働いてきたのだと話してくれた。当時の病院長だったドクター・ハリオットのことも良く覚えていた。
「30年も前のことを覚えている人も少なくなりました。この病院も、州政府の決定には逆らえませんでした。結局、兼松氏が寄贈した研究所もプリンス・アルフレッド病院に移管され、現在では兼松氏の紋章が残された壁だけが、この建物の横に保存されています」と言って、わたし達を案内してくれた(写真)。
 

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さて30年前、シドニーに到着し、翌朝訪ねたオペラ・ハウスは、今では世界的に有名な建造物になってしまったが、その建築にまつわる話を紹介しておこう。

このオペラ・ハウスを設計したのはデンマーク人のジョン・ウッツオン氏は、当時、38歳の新進気鋭の建築設計士で、彼はオペラ・ハウスの世界建築設計コンペで一位となった。1959年の工事を開始した時点では経費も安く、建築工事開始から3年で完成させる筈だった。しかし、工事は遅れ、予算も可なりオーバーしたことから、州政府に反対され、怒った彼はシドニーを後にして戻って来なかった。その後、4人のオーストラリア人の建築設計技師らが、後を引き継いだものの上手くゆかず、結局、ウッツオン氏の設計通りに建築を進めた結果、1959年の起工から満14年の歳月を費やし、一時は「未完成交響曲」や「悩めるカキ」(建物の外観がカキの貝殻で出来ているようなところから綽名が付けられた)と皮肉を言われたが、1973年春、迂回曲折の末、遂にオペラ・ハウスが完成したのである。
 

イギリスのエリザベス女王や、世界の元首が出席して行なわれた開会式、10年後の記念式典にもウッツオン氏は出席しなかった。しかし、漸く彼の気持ちも和らぎ、2003年春に行なわれた30周年記念に一時は出席すると伝えられたが、しかし、老齢のため体調もすぐれず、旅行も無理だという理由で遂に出席しなかった。

「彼は遂に自分が作り上げた世紀のオペラ・ハウスを、今後も見る機会はもう無いでしょう」とブルックス氏は残念そうに話した。わたしは彼に丁重な礼を述べて、シドニー病院を後にした。そして翌日、わたし達はシドニーを後にして帰国した。

話はシドニーから東京へと舞台が変わるが、その年の5月4日の朝、わたしと家内は東京巣鴨の近くにある「染井墓地」に眠る先祖の墓に詣でて、久し振りに墓参を済ませることができた。ほっとした気持ちで広い墓地の中を何時もとは違った道を通って、巣鴨の駅に向って歩き出したのだが、「おやっ」と思った。無理もない。わたし達の墓のすぐ近くに、最近、建立されたばかりの「高階家」の墓を発見したからである。東京にもわたしの苗字は少ないが、きっと遠い親戚であろうと推測した。

そのすぐ後に、わたしは意外なものを発見した。それは墓石に彫られた「双羽の紋章」である。紛れも無く、わたしが5ヶ月前の正月にシドニー病院で目にした「兼松」家の紋章と同じものだったのである。少々驚いたが、更に少し歩いていくと、その道の両脇だけでも10数個を超える墓石に同じ「双羽の紋章」を発見した。紋章が同じだと言う事は、同じルーツだということになる。兼松氏とここに葬られている家の方々とは、どこかに接点があり、きっと同じ藩主の末裔か、家来ではないかと考えてみた。

墓参の帰り道、わたしの興味の焦点は、一気に「家紋=紋章」を調べる事にしぼられた。帰途、新幹線の中で、話題の養老孟司氏の『死の壁』(新潮新書)を読みながらも、時々思い出したように、「双羽の家紋」をどうすれば調べられるかということ考えていた。神戸の自宅に帰って、早速インターネットで調べてみたが、ネットではこの種類の情報は掴めない。集英社の「イミダス」や、朝日新聞社が出版している「知恵蔵」にも載っていない。何とか探してみよう。

 
その翌日、5月5日(子供の日)わたしは大阪梅田にある紀伊国屋書店に出かけ、遂に家紋について書かれた『家紋辞典』(大隈三好著・金園社)を手に入れることができた。その中にわたしがシドニー病院で撮影した「兼松家の紋章=鷹の羽」が示されているページを見つけた。大隈氏の解説によると、鷹の羽は鷹と同じ意味合いのもので、中古武官の冠には鷹の羽を挟んだものだが、文官の冠にはなかったという。これは明らかに尚武的意義に基づくものであると思われる。鷹羽紋は鷹紋よりも早く紋章化され、そのデザインも様々であった。この紋章が歴史的に出てくるのは九州の豪族「菊池武房」が活躍した「蒙古襲来」の時である。その家臣には「北条時宗」がいて、嵐の中を突いて出撃し(神風とはその時にふいた風のことをいう)蒙古軍勢を打ち負かした勇将であった。その末裔に海軍兵学校を卒業後、第二次世界大戦中、海軍士官として活躍した「北条正」(父方の親戚であったが、戦後、亡くなった)がいたことを、この文章を書いている最中に思い出したのである。

 
菊地氏の鷹羽紋は阿蘇明神より賜ったと「北肥戦史」にあるから、恐らくこの紋章は保元平治の頃から使われていたことになる。阿蘇神社は鷹羽が神紋で、神官阿蘇氏もこれを家紋に用いたと考えられる。菊地家の鷹羽紋は鷹の羽が2枚並んで立っている並鷹羽である。既に述べたようにデザインも様々で A.羽根を立てたもの(並鷹羽)、B.羽根を打ち違えたもの、C.横鷹羽、D.鷹羽丸、E.鷹羽団扇などがある。忠臣蔵で名高い播州赤穂の城主「浅野内匠頭守」の家紋も「丸に鷹の羽の打ち違い」であった。既に述べたように鷹羽紋を家紋にしたのは、菊地氏が最初であるが、菊地氏の子孫は肥後を本拠として一門繁栄し、西郷(わたしの父方の親戚にあたる)、小島、兵頭、山鹿、村田氏など数十におよび、更に神官阿蘇氏は菊地氏以外の数氏にも家紋を下賜した。その結果、足利時代にはこの紋を家紋とした氏族は全国的に及び、徳川期になるとこの紋章を用いるものは、大名旗本を合わせて何と123家にもなった。そして平成の今では、この家紋(紋章)を使っている数はどれくらいになっていることだろう。道理で、わたしが染井墓地を僅かに歩いただけでも、10数個の墓石に彫られた同じ「鷹の羽」の紋章を見つけることができた理由が分かった。シドニー病院で見かけた「兼松家の紋章」を5ヵ月後に再び目にし、「鷹の羽」の故事来歴を知ることができたのである。

 
わたしが神戸に帰ってから、第1回の日豪医学教育交換プログラムに参加した「中島督夫」先生に手紙を出したところ「シドニー病院で勉強できたことが、自分の人生にとって一番素晴らしい思い出となった」と大変懐かしがっておられた。そして「兼松房次郎」氏のことを書いたオーストラリア人医師のロナルド・ウイントン著『兼松の偉大な贈り物』を丸一冊コピーして送って頂いた。その表紙と各章のはじめには「鷹の羽」の家紋がくっきりと記されていた。

30年振りに訪れたシドニー病院は、確かに時代の流れと共に変わっていた。しかし、そこに「兼松房次郎」氏が残した歴史的な事実は第二次世界大戦中も失われることはなかった。日本では多くの人々に「兼松江商」という名前を聞くと、「あの貿易商社だ」という人はあっても、当時、医学研究のために多額の寄付を行い、日豪の掛け橋となった兼松氏の事を知る人は少ない。時間は人々の記憶から、過去の歴史を風化させてしまうのだろうか。

一方、わたしにとって何時までも記憶に残っているのは、30年前、「万国博覧会」の期間中に起こった出来事である。すでに述べたように、急性心筋梗塞を起こし、適切な治療によって一命を取り止めたオーストラリア人のマーティン・ウイーバー氏が淀川キリスト教病院での治療に感謝の意を表すために、多額の寄付をおこない実現した日豪医学教育交換プログラムのことが、つい昨日の事のように鮮明に思い出された。それは奇しくも兼松房次郎が1933年に「兼松記念研究所」をシドニー病院に寄付してから、40年後の1973年のことだったからである。